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昭和初期、窯の煙の途絶えかけた唐津で、
一人の愛陶の人が中里太郎右衛門(十二代、故人)を支えて
唐津焼の復興を目指しました。
唐津が忘れてはならない人、古舘九一氏を、
愛娘安子さんが80才になった今、
追慕の念をこめて語ります。


おしらせ
故・古館均一著の『絵唐津文様集』が
平成22年7月に東京の里文出版より出ました。
5,250円
古唐津に趣味のおありの方は御一覧下さい。
問い合わせ先:03−3352−7322



愛陶の人 古舘九一

一力安子 (九一・三女)  
(むげん出版 『遊楽』 No.64 平成10年1月より転載)


 

 昭和の初期、唐津は焼物の火の消えた町であった。現在、唐津焼は隆盛を極めているが、ここに至るまでには、さまざまな人の努力があった。「桃山に還れ」をスローガンに、十二代中里太郎右衛門さんを助けて、唐津焼の発掘と整理につとめた亡父・古舘九一(ふるたちくいち)も、その一人である。今回、(『遊楽』に)古唐津特集として父の足跡を取り上げて下さる話があり、私は感謝している。
 父は明治七年(1874)に生まれ、昭和二十四年(1949)に没した。杵島炭鉱専務取締役を最後に、昭和五年(1930)五十五才で退職。それより十年前に唐津市城内ニの門に新築し、そこで過ごした。
古舘九一

 俳句を嗜み、荻原井泉水の『層雲』を愛読し、特に与謝蕪村を好んでいた。俳号「古新」。古新とは温故知新からとったものであることを今回、兄から聞いた。私は父の生まれが古屋という酒屋なので、古屋の次男坊、即ち新家からきていると今の今まで思っていた。大変浅はかであった。
 退職した五十五才以降は、すべての精力を陶器に向けていた。岸嶽古窯の発掘、研究、蒐集、さらに古窯陶片のみで次々に呼び継ぎをして、多くの作品を残した。

 私はこの十年来、父が何故唐津焼に執着したか、又どうして我が家に伝世品が多くあったかの謎にとりつかれて、その何かを探し廻っていた。平成七年に納得出来る事に出合えたが、それは最後のしめくくりに書こうと思う。

 思えば家中、陶片と焼物であった。相当広い家であったけれど、蚕棚の様な棚があちこちにあり、窯別の陶片が並んでいた。どこを見ても陶器の棚であったが、私は幼かったので、その整理のあり方等はわからない。でも、半泥子さんや皆さんの残された文に褒められている所をみると相当整理されていた様だ。いつもお茶碗窯の中里さん宅を訪れ、焼き上れば伝世品と発掘の陶片と新作品を前に、長い間、二人で研究をしていた。

 又、毎日、家族でお茶会を行っていた。お点前は宗偏流を学んだ母であったが、お道具は総て父が揃えた。茶室は通常お客の為のものであろうが、古新亭では専ら家族のみ。それもお茶碗を見て持って慈しんでいる様子だった。我々も見る事を教えられて、わからないままゆっくりとながめていた。毎日使う事によって、どのお茶碗にも水を与えたかったのであろうと最近よく理解が出来る。
 それを毎日、長兄均一が写生をする。「古新亭茶日記」の四冊である。
 父には三男・豊が助手というより手足の如くに常につきそっていた。その兄は早く逝ったが、兄が生前に書いた文章を探しあぐねていた所、今回、黒田草臣さんが探して下さった。飛び上る程嬉しかった。
 博雅書房から昭和ニニ年四月に発行された『陶磁味』に「古からつ漫談」と題して掲載されていた。金原陶片(京一)さんに勧められ、教えられながら書いていた当時の兄の姿をよく憶えている。その文章が私の思い出話より数倍良いので、ここに転載することにした。


発掘の喜び
 「古窯址」の発掘が今に始まったことでないのは、既に「掘出唐津」の名称の世間に流布せられていることに拠っ
発掘風景
ても明瞭であるし、帆柱窯の物原は更に歴然とこのことを証拠立てているかのようである。
 してみると、古人も屡々発掘の喜びを味合っていたに相違ない。
 現在行われている発掘には、古窯址の地形・環境の調査を始め、土質・原料の調査・窯の構造の調査、及びその歴史的研究・或いは出土品の分類・鑑賞・保存等々、学問的・技術的調査方法の肝要なること周知の事実であるが、この点に就いては古人の終いに与り知るところではなかったとしても、その発掘者の心理に至っては今も昔も変りのあろう筈はない。即ち、未知のものに対する激しい好奇心だとか、旺盛なる研究心だとか、古きものへの憧憬の気持ちだとか、物欲に根ざす掘出しの興味さえも入り混って、その心理にはさまざまの気持の浮動去来して止まぬものがあるが、就中、熾烈なものは、古き昔の「陶片の美」を享受せんとする渇望的な気構えと其を耽美する心であろう。

 一体数百年も以前の作品が仮令一片のかけらにもせよ何等の変化もきたさず新しい時そのままの姿で吾々の眼前に現れると云うことは、―出土陶片の場合至極当然のことでありながら、―考えて見ればこの世に又とあり得ない驚嘆すべき不思議な経験で少からず奇異の感に打れるのである。まして、霙の降りかかる仄暗き杉林の土中より、又は夏の日の灼けている物原の青萱の根元などより、土の香と共に、ひょっこり、掘り出されてくる、土の湿気に潤うた陶片の新鮮な色には、全く驚嘆の眼を見開かずにはおられない。

 其れは心奥にじかに触れてくる美しさである。左手に乗せた陶片の土を、その親指でぐいとぬぐって、しみ入るように見つめる時の静かな瞬時の喜びは何に譬えようもない。
岸岳古窯址

 ―これを数百年も前の陶片と、どうしてこの時思う事が出来よう。古き昔の陶片の美に憧憬れ、美を訪ねて、次から次へ古窯の址を巡って更にその苦労を意としないのも、この喜びあるが故であろう。
 古人もこの喜びを味識しておったに違いない。
 道園の絵唐津の皿であったか。その縁の欠けた所へ持ってきて同じ窯の出土破片を巧みに継ぎ合わせてあるのを、筆者は曾つて見たことがある。而かも、その継目に用いられた漆の丹の色には既に古色が滲んでいるのであった。
 
(古舘豊 「古からつ漫談」 『陶磁味』 博雅書房刊 昭和二十二年 原文は旧字・旧かな遣い)



 その頃、金原陶片さん、中里太郎右衛門さん(十二代)、それに父と兄の四人は協力し合
金原京一(陶片)
って「古唐津」復興の夢を追っていた。その様子はどのようなものであったのか。兄の文章の中に「廃れたる陶技」として、古唐津の逸品によくみられる叩きの技法を四人で山の中に探しに行き、それが現代に蘇った時の情景が手にとる様に描かれているので、これもそのまま転載させていただく。



廃れたる陶技
 紐状に拵えた粘土を積み上げていって然る後、これを叩き締めて整形する、所謂打成法(紐造法)は、周知の如く、「からつ」独特の陶技ではない。
 併し、岸嶽の古窯に於いて、壷、水指、徳利の如き「ふくろもの」を造る時には必ず採用され、且又その草創の時代に於いて既に完成の域に達して居たと見られるこの妙技が、何時のころよりか誰れ一人知る人もなく廃れて仕舞ったのを遺憾とし「からつ焼」の復興に日夜苦慮を重ねて居られた御茶碗窯の中里太郎右衛門氏を中心に、金原陶片氏、父・古新も加わって、何とかしてこの妙技を再び「からつ焼」の上に復活せしめたいと、よりより凝議中であった。
 恰度、その頃金石原のとある甕山にこの技法の今に伝っていることが知れてきて、一同飛び立つ思い「さっそく、出掛けましょう」と云うことになって、筆者も同道して見学に行ったことがあった。
 今から十年も前の冬のことであったかと思う。
 焼物のかけらが堆く重なり、散乱している崖の道を登って行くと、広い庭を囲うように、甕山の主家と大きな藁屋根の工場が鍵なりに建っているのであった。
古舘豊(九一三男)

 折悪しく、御主人は不在で、その秘法を伝授して貰う訳にはゆかなかったが、折角のことに、工場を見せて貰うことになった。
 仄暗い工場には、誰れか人が居ると見えて窓越しに焚火の色が見えていた。中に這入ると湿気が一面に漾うていた。土置場には、夥しい陶土が山と積まれ、その向こうには赤土の泥濘と化した土踏場も見えてきた。
 さきほど焚火の洩れていた窓に向かって大きな蹴ロクロを前に今一人の少年がせっせと水甕を拵えているところであった。
 腕の太さ程もあろうかと思われる粘土の紐を左の手から肩に投げ掛けるように置き、右手を添えて、蹴ロクロを緩かに廻しながら、半ば出来上った甕の胴部に積上げてはぐいぐい緊めつけてゆく。面白いほど土はのびて胴の部分が出来てくる。
 少年は、手から肩に掛けて置いた土の紐を全部甕の胴に積み上げて仕舞うと、今度は握拳のような木製の道具を右手に持って器物の内側に当て、握把のついた長方形の板ぎれを左手に構えて、器物を廻しながら、パタパタと叩きはじめたのであった。
 「古唐津」の壷の内側に往々青海波紋の現われているのが今右手で使っている道具の木目の痕であることや、壷の外面に出ている凹凸は左手に持った木片の叩き痕であることも、この時に解った。
 水甕にはこの瑕は見苦しいので仕上る時に奇麗に拭きとって仕舞うとのことであったが、水指や茶壷のような風雅なものは、矢張り古陶に見られる程度には残して置いた方が、器物の側面を複雑にし又釉懸けをして焼上げると自らそこに微妙な陰翳を含むことになり深みを増す上に効果的であるに違いないと感じたことであった。
叩きの道具
 少年は吾々の方を一寸眺めやったまま、猶も黙々と同じ動作を繰返えしていったが、みるみるうちに、一個の水甕は出来上ったのであった。
 焚火は今少年の居るロクロ場の先にとろとろと燃えているが、それは未だ柔かな甕の形が、整形の途中で、崩れたり、歪んだりしないように少しずつ乾かしてゆく為のものであった。少年が両手に使って見せた木製の道具は朝鮮の言葉で「トケ」「シュレ」と云うものであることも後で解った。
 其の後、甕山の主人が中里太郎右衛門氏をその御茶碗窯の工房に訪ねてきて居られるところへ、筆者も行き合わしたことがあった。
 恰度、ロクロ場から出てこられたところで、―「甕と違って、小さなものは仲々やりにくい」と云う話を聞きながら、未だ木の香も新しい「トケ」と「シュレ」を手にとって物珍しく眺めたことであった。
 工房の前には、既に出来上ったたたきの壷が冬の日に乾かしてあった。
         
(古舘豊 「古からつ漫談」)


  当時、古窯址発掘のメンバーはこの四人の他に、営林署の溝口さん(お名前ははっきりしない)それにお手伝い
三浦家の離れは昔のまま
の進藤爺さんであった。母は料理の好きな人だったので、鉄の大鍋で「ゆで牛」を作り、お弁当を作っていた。きっと美味しかったと思う。
 掘ったものはリヤカーで運んでいた気がする。
 石黒宗磨さんも度々参加なさった。何せ昭和十年と云えば六十二年前のこと、私は小学六年位ゆえ記憶はうすい。唯「宗磨さーん」「豊さん」と呼び合いながら、井戸端で陶片を洗うニッカーボッカ−の宗磨さんの姿が浮かぶ。唐津の京町の三浦さんのお宅にお住みになったと随筆にあるので、昨年の夏お尋ねをして、お離れを見せていただいた。当時のまま残っていて、此所から御茶碗窯へ、又我が家へいらっしゃったのだと感慨深かった。
 朝日新聞の小野公久さんが『陶説』の平成九年四・五・六月号に「石黒宗磨と民芸運動」という論文を書かれた。そこに紹介されている宗磨さんの手紙によって、当時の宗磨さんの唐津に寄せる情熱とその活動の一端がうかがえるので、ここにその一部を掲載させていただく。



 「京都、蛇ケ谷の家には、家内にわづか五十銭をおいたきりで九州の唐津に旅立った。昭和九年の二月中旬だったと記憶する。ちょうど四十歳だった。黒のジャンパーにモンペをはいての、当時の二等車の旅。唐津の駅に下り立ったときは、懐中わずかニ円五十銭。やきもののことだけで頭が一杯、家のことなど顧みる暇もない。車中のわたくしは、異様な風貌をしていたかも知れぬ。『たまや』という宿におちついて、そこから中里太郎右衛門君の窯へ通ったり、当時唐津の古窯を発掘していた古舘九一氏と懇意になって、窯跡をさがして回ったり、唐津焼研究の権威者だった金原京一さんと古唐津を見てまわったりしたものだった」(昭和九年二月は同十年三月の誤り)と(宗磨は)
最晩年に回顧している。(中略)
 唐津滞在中、(宗磨は)武内(潔眞・大原美術館初代館長)宛に八通の手紙を書いている。
 「土地の人さへ唐津を知りません 骨董屋の店を見てもカケラも見當りません 完全に亡びて仕舞って 只各所に窯跡らしい岡にまだ高台などみられる位のものです 寶の様な原料が かくも無尽蔵に何処掘ってもあります 腰を落として作ります」が三月十五日付の第一信。同十七日付の二信では「初期のものを拝見して驚きました 決してキタナイそして亡国的な茶趣味な隠遁的なものではありませんでした 実ニ強靭な するどい そしてあかるいものです 只全体的に日本人らしい潔癖と静かなものが内蔵されて居りました」と古唐津の印象を語る。この言葉に続いて「此処はやがて私の骨を埋めるところ、この土の中に眠れたら魂が喜びます」。手放しの惚れ込み様だ。(中略)同(四月)十一日付の手紙は、夫人も六日に唐津にやって来た事、自分の提唱で新たに登窯を築いている事などを記す。唐津からの最後の手紙となる五月一日付では、既に小さな試験窯を三回焼き、連日朝から晩までへとへとになって働いている事、帆柱窯出土の斑唐津の失透釉に関心を抱いている事などが報じられている。(後略)
 
(小野公久「石黒宗磨と民芸運動(中)」『陶説』 平成九年5月号 日本陶磁協会)



 これが昭和十年の話である。
 また川喜田半泥子さんも父の親友であった。秘書の藤田等風さんは「半泥子死の床迄、唐津に古舘ありを云い続けました」とおっしゃっていた。
 半泥子さんの『泥佛堂日録』から「唐津見聞」を抜粋しよう。

古舘さんの唐津蒐集
 古舘さんの唐津系統の蒐集は、得難いものである。伝世品と、発掘とを問わず、唐津系のものはよくも普遍的に集められている。そして客の言葉に応じて、取出される様子から見て、整理の上にも感心をさせられる。然もそれが、例のお金臭い集め方でなく、全くの愛陶趣味から来ているから、破片の如きも一小片に至るまで、出所を明記して研究の便にする深切が現れている。呉々も市場価値を度外した蒐集が嬉しい。世の愛陶家諸君は、古舘さんの
質実さと、陶片に対する深切さに見倣われたい。

お茶碗窯
 御茶碗窯は現在、中里太郎右衛門さんによって作られ、古舘さんと金原さんが陰になり、日向になって、力となっているから、陶磁器試験所などの指導を受けて、不知不知、昔の持味を失って行く地方窯に比べて、全く特色を持っているのが嬉しい。然しありようにいうと、享保頃に中里家の先祖が築かれた、朝鮮風のイイ窯が見捨てられて、今は京都式の然も耐火煉瓦で築いた窯であるのがウラメシい。それに土味と釉色に遺憾な点はあるが、何をいっても古舘さんの所蔵の参考品が充分であるから、これで窯を「堅ざま」にして、せめて中性焔で焼上げるようになったら、中里さんの努力と、趣味の向上次第では、古唐津の味を出す位は、左程六ケ敷いことと思えぬ。
  
(川喜田半泥子 『泥佛堂日録』 原文は旧字・旧かな遣い)


 察するに、当時、太郎右衛門さんの御茶碗窯は、宗磨さんの影響で窯が京風になったり、半泥子さんの指摘で改良が加わったり、試行錯誤を続けていたようである。
 その他にも父のもとには陶客が千客万来であった。加藤唐九郎、小野賢一郎、加藤はじめ、小山冨士夫、田辺加多丸、佐藤進三、田中丸善八、水町和三郎、鈴木惠一(半茶)氏の御面々、記憶にある方だけでも、そんな方々が訪れてきては父の集めた古唐津を熱心に鑑賞・研究されていた。
 その陶客の集まった我が家の座敷部分は戦後、移築され、近松寺の庫裏となった。当時の広さを忘れたので、このたび御住職におたずねしたら、御親切に見取り図を書いて下さった。八畳四畳の一組が東西に三つ並んでいる。その襖を払い、二月堂の机を沢山並べ、今日は高麗、次は唐津と御要望に応じて焼物や陶片などが並べられ、机の前には座ぶとんが敷かれて、移動しつつ心ゆくまで手に取って御覧になっていた。父は隅に控えて、質問が
陶片
あれば答え、それよりも御意見をうかがう態度であった。今思えば、良き時代の良き焼物鑑賞の姿であった。
 そんな父の楽しみは、手もとに集まったたくさんの陶片を継いで、使える器に再生させることであった。今、私達のもとには、そんな呼継が三十数個残っているが、まだまだ作ったと思う。請われるままに、あちこちにさし上げていた。
 呼継の作業は、まず同じ窯から採取した破片を並べて、再生に適したものを選ぶことから始まる。それらを歯医者の使う足踏みのグラインダーで削り、形を整えて組み合わせ、卵白とメリケン粉で付ける。時には十以上の破片を組み合わせることもあり、傍目にも中々根気のいる作業であるのに、父は、いかにも楽しげであった。後は漆
九一が呼継した茶碗
屋の一色さんに仕上げて貰った。父の注文で金や丹が使われ、中には青海波のものもあった。最後に、殆ど家に常駐していた指物屋の小杉さんが、それぞれに桐箱を造ってくれた。
 そうして生まれた父の呼継の器は、当時、家族で楽しんでいた茶会に登場したり、晩酌の酒器に使われたりした。
 今回あらためて父の作った呼継の器を眺めて、つくづく父は「愛陶の人」であったと思う。ことに唐津焼に寄せる父の情熱は桁外れであった。
 そんな父でも戦争後の経済異変には勝てなかった。すでに七十を遥に越え、寝たきり状態では総てを持ち堪える事は無理であった。
 陶も家も散逸し始めた。
古舘邸跡地には現在十数軒が。
 逝くニ、三日前に「テニスコートは古唐津美術館を作るつもりであった」と痩せ細った頬に涙を流した。
 陶達は今、田中丸美術館や太郎右衛門さんの「古唐津の流れ展」等で無事な姿を見る事が出来る。それで良かったのだと思う。唯、陶を愛した歴史は絶対に消えないし、又消してはならないと思う。

 最後に、色々と父を追っていくうち、平成七年暮に家のルーツに行き当たったことを付け加えておこう。
 秀吉朝鮮出兵の砌、名護屋城築城の為に材木を運んだ泉州堺の商人、船頭木屋・山内利右衛門が我が家の祖先であった。そのまま唐津に移り住み、お墓も来迎寺にある事が判明した。それは天正十九年(1591)利右衛門四十一才の時で、九十八才で亡くなっている。盛んに堺と唐津を往来したようである。最近になって大阪で出土した唐津焼の輸送にも関わっていたのではないかと思う。
 私の祖父が木屋・山内家から出て、古屋酒店(古舘)を復興させている。この古舘家が松浦党に関係があった。
又、草場見節という唐津焼復興に挑んだ人も我が家の一統である。
古舘六郎著

 そんな祖先の霊気に打たれたのか、兄六郎は木屋利右衛門について一冊の本を書き上げた。
 父は堺からの歴史を踏まえて、唐津焼を大切に思っていた親族一統の生れであったのだ。数多いと云われた伝世品も、この親族のものが基礎をなしていた事もわかった。私はこのルーツを探し当てた事によって、父の唐津焼への愛情と、その復興へ燃やした並々な
一力安子近影 (80才)
らぬ熱意を納得することが出来たのである。








 




 

一力安子様に感謝いたしますと共に、いつまでもお元気で作陶や研究に励まれますようお祈りいたします。
                                       
洋々閣 女将 大河内はるみ

    洋々閣 女将 御挨拶 平成14年8月号 「一力安子 センチメンタルジャニー」へ

    
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