みなさん ご存知でしょうか
明治初期以降 北波多の炭坑が九州の いや日本の産業発展に大きく貢献したことを・・・・
享保(1716〜)年間、大牟田に次いで、日本で二番目に、岸山ドウメキで一農民が 焚き火から燃える石(石炭)を発見しました。
明治5年(1872)岸山で寺ン谷炭坑が開坑され、明治18年には、竹内綱、竹内明太郎、高取伊好、外村宗次郎、魚澄総佐衛門、ら共同で芳谷炭坑を本格的に開坑、採炭を開始しました。
 以来、北波多地区には、90年間、25の炭坑がありました。
  
昭和37年に最後の炭坑が閉山となりましたが、大正9年頃は人口17.318名(現在4.800名)、出炭量(最盛期佐賀県の50%)トン/年となり、多久・厳木・相知・北波多地区は、唐津炭田として全国に名をなすまでになりました。
大牟田(三井三池)、筑豊(貝島、麻生、住友他)地区は、世界遺産を目指すほどの遺産とそれを保管する石炭記念館があります。
北波多地区は、先発者としての歴史はありますが、残念ながら鉱山機器、更にはそれを保管する記念館がありません。
しかしながら 当時をしのぶ唯一のものは 写真です。 その写真を関係者のご協力により提供戴きましたので、この100年有余の北波多地区の貢献と変貌 を探求出来れば幸甚です。
( ご報告とお願い )
今回の北波多郷土史研究会による「北波多地区炭坑研究」に当たっては、県・市・個人の方々の著書・写真などを使用・引用・転記・複写をしていることをご報告申し上げるとともに、ご使用のご承認を頂きますようお願い申し上げます。
                                       北波多郷土史研究会