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2009年4月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶




若鮎釣る松浦の川波
神功皇后伝説




 みなさま、4月になりました。黄砂に苦しみながらも桜は咲いて散り、早くも惜春の情を感じます。年々春が早く来ますね。今月は先月末に完成しました新しい小さな公園をご紹介します。

神功皇后ゆかりの「万葉垂綸石公園」です。唐津市浜玉町を平原のほうに玉島川に沿ってのぼっていくと右手に玉島神社がありますが、そこを過ぎて道が二手に分かれるところを、橋を渡らず右に行くとすぐに支流・小川に沿って小さな公園が完成しています。それが、下の文章に出てきます垂綸石を祀った公園です。3月末に写真を撮りに出かけました。玉島川の清流はサラサラ流れて、「春の小川」の歌を歌いながら下の写真を撮りました。

 垂綸石の説明のほうは、万葉研究家の岸川龍先生の書かれたものを許可を得まして転載させていただきます。古代に思いをはせながら、ごゆっくりお読みください。玉島川のせせらぎがお耳に届きますように。
なお、万葉集に「松浦川」と歌われているのは実は玉島川です。今の松浦川はくり川と呼ばれていたそうで、流域もちがっていたそうです。








唐津地方の神功皇后伝説
岸川龍
『西日本文化』2008-10 より


 美しい自然に恵まれた唐津地方は、古代から大陸との交流が盛んであったため、日本と大陸(特に朝鮮半島)に関係のある伝説が数多く伝えられている。
 その一つに「神功皇后伝説」がある。
  
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黒く見える石が垂綸石
 神功皇后は、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で名を「気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」と申し上げる。

 「古事記」・「日本書紀」・「肥前風土記」などの記述によれば、天皇と皇后は熊襲(くまそ)がそむいたので討伐のため九州に下り、筑紫の橿日宮(かしひのみや)に駐留されることになった。
 そのとき、皇后に神が乗り移り、「西方に金銀をはじめ多くの宝を持った国があるので、まずその宝の国を討つがよい。」とのお告げがあった。

 皇后は、天皇にそのことを話し、新羅出兵をすすめられたが、天皇は同意されなかった。そのため天皇は神の怒りに触れて急死されてしまった。
 皇后は群臣を集めて、神のお告げに従って新羅へ出兵することを宣言し、男装し、兵を率いて唐津地方へやって来られた。

 筑紫の伊都県(いとあがた)(福岡県糸島郡深江)において、皇后は裳の腰の部分に石を縫い込まれた。それは皇后が、たまたま妊娠中で産み月を先へ延ばす必要があったからである。
 やがて皇后は、松浦県(まつらあがた)の玉島(たましま)の里へお着きになり、玉島川の川の中にある石の上に立って、戦占(いくさうらな)いをされた。

 このことについて「日本書紀」に、

たらしひめ神のみことのなつらすと
みたたしせりし石を誰見き
 是(ここ)ニ皇后針ヲ匂(ま)ゲテ鈎(ち)を為(つく)リ、粒(いいぼ)ヲ取リテ餌ニシ、裳の縷(いとすじ)ヲ抽取(ぬきと)リテ緡(つりのお)ニシテ河中ノ石ノ上ニ登リテ鈎ヲ投ゲテ祈(うけ)ヒテ曰ク云々
とあり、年魚(あゆ)がみごとに釣れたので戦勝間違いなしと喜ばれ「希見(めずら)しき物なり」とおっしゃった。


 この「希見(めずら)」という言葉が「梅豆羅(めずら)」と訛り「松浦(まつら)」になったと伝えられている。
 唐津市浜玉町の「玉島神社」前の玉島川のほとりに、皇后が立って釣りをなさったという石があり、「垂綸石(すいりんせき)」あるいは「紫台石」と呼ばれていたが、近年、道路拡幅工事のため、近くの別の場所に「万葉小公園」を作って移転することになっている。

 このほか、神功皇后に関する伝説は、唐津地方のあちこちにいくつも伝えられている。たとえば、唐津湾に浮かぶ「神集(かしわ)島」の名は、皇后がこの島に神々を集めて「豊(とよ)の明(あか)り」を催されたことに由来するとか、唐津の「鏡山」の名は、戦勝を祈念して皇后が鏡を山頂に埋められたからだとか、そのような言い伝えは枚挙に遑(いとま)がない。

 我が国最古の歌集「万葉集」にも神功皇后のことをうたった歌が収められている。

 869 足日女(たらしひめ)神の命(みこと)の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰(たれ)見き
 
玉島のこの川上に家はあれど
君をやさしみあらわさずありき
3685 足日女(たらしひめ)御舟泊(は)てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ

 足日女とは神功皇后のことであり、前の歌の作者は山上憶良・後の歌の作者は天平八年新羅に使いした遣新羅使団員のひとりで氏名は分っていない。

 戦前・戦中は「神功皇后」といえば、小学校の歴史の教科書に載っていたので、子どもでも皆知っていたが、たとえ「日本書紀」や「古事記」に載っていても歴史上実在の人物ではなく伝説上の人物であるということで戦後は次第に名前を知る人も少なくなってきている。

 しかしながら、三世紀から四世紀にかけての、日本と大陸(朝鮮半島)との交流を考えるとき、伝説の意味するものをも、史的事実との対比に於いて、併せ考えていく必要があるのではないかと私は考えている。

(きしかわりゅう・元末慮館館長) 




岸川先生、ありがとうございました。
せっかくですから、万葉集から玉島川の歌を引きます。

松浦川玉島の浦に若鮎釣る
妹等を見らむ人のともしさ
松浦(まつら)なる玉島川に年魚釣ると立たせる兒等(こら)家路(いへぢ)知らずも
遠津人(とほつひと)松浦の川に若年魚釣(わかゆつ)る妹が(たもと)(われ)こそまかめ
松浦川川の瀬光鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れむ
   
芳年魚(わかゆ)()る松浦の川の川波の普通(なみ)にし()はば(われ)戀ひめやも
()れば我家(わぎへ)の里の川門(かはど)には年魚兒(あゆこ)(はし)る君待ち兼ねて
松浦川
七瀬(ななせ)(よど)はよどむとも(われ)はよどまず君をし待たむ
   
松浦(まつら)川河の()早み(くれなゐ)()の裾()れて年魚(あゆ)釣るらむか
人皆(ひとみな)の見らむ松浦の玉島を見ずてや(われ)は戀ひつつ居らむ
松浦川玉島の浦に
若鮎(わかゆ)釣る妹等(いもら)を見らむ人の(とも)しさ








北原白秋も「唐津小唄」の中で玉島川の鮎を歌っています。
玉島の鮎は金色の唇をしてまことに美味なのです。

”金の口したこのよな鮎が、ホノトネ、
 かはい子鮎がどこにあろ。
     「唐津、唐船、とんとの昔、
    今はおいさの山ばやし。
      チャントナ、チャントナ。」

では皆様、松浦の里から、お別れです。来月また。





今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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