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2010年6月




このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶


『鶏林随筆』よりトオル先生の自画像

 

 トオル・金 容 沃(キムヨンオク)先生と歩く唐津の中の韓国


5月1日
風は宇宙の歌である。その歌を「徳音」と表現した。宇宙の風を愛や孝と認識する時、人の性の善なる根幹となる。性善は風である。そして風は風化、即、教化の能力がある。孝は宇宙の歌である。

                          
 金容沃 『鶏林随筆』より   

 アンニョンハセヨ。 お元気ですか。
今月はとびきりのおはなしです。
キム・ヨンオク先生というかたをご存じですか?(クリックして出てきたページから日本語の翻訳に進んでください)
先生は号をトオルとおっしゃって、韓国のみならず東アジアの指導的哲学者・思想家でいらっしゃいます。まだお若くて62歳。18年前に一度洋々閣へお越しくださって2泊されました。その時はある財閥のかたが案内していらっしゃいました。今回は、大きな著作が脱稿したのでちょっと一休みと、奥様とご一緒に2泊3日の唐津だけの旅にいらっしゃいました。主人と私はその三日を先生ご夫妻にフルアテンドして、あちこちご案内しました。
 
ご一緒に唐津の中の韓国を歩いてください。






 4月初旬、トオル先生から直接のお電話でご予約を受け、主人と私は舞い上がってしまいました。なにしろ普通の人じゃなくて、たいへんな天才です。18年前の記憶は韓服と物静かな学者の風貌。どうおもてなししていいか途方に暮れたことをよく覚えています。でもその時にはお帰りに「一生のうちで何も勉強せずにのんびりと日を送ったのはこの二日が初めてだった」とおっしゃって、それはそれでよかったのかな、と思ったことでした。
 今回もどうやらお疲れ休めのご旅行の感じで、でも奥様が初めてなので、どこをご案内しようかと主人と相談した結果、唐津の中の韓国をお見せすることにしたのです。
左から河太郎ご主人、奥様、先生

 4月16日、十一時過ぎに東唐津駅にお迎えに行って、そのまま呼子へ走りました。まず、お昼御飯です。18年前のイカの生き作りが忘れられないとおっしゃって、事細かにその日の記憶を奥様に語られました。ご飯を召し上がりながら、「クムガンサンド シク フギョン」と言って笑われました。「金剛山も食後景」という意味だそうで、どんなに素晴らしい景色でもまず腹ごしらえ、「花より団子だよ」と日本語でおっしゃいました。普段はお勉強に夢中で一日お食事に出ていらっしゃらないこともあるそうで、先生が召し上がると奥様が嬉しそうでした。

 
洋々閣社長、奥様、ソンさん、先生、私
食後にまず名護屋城博物館に行って学芸員のソンスンオンさんからいろいろ説明をして頂きました。佐賀県立博物館は唐津市鎮西町名護屋に作られた日韓関係に焦点を当てた日本でも珍しい博物館です。文禄慶長の役の時に豊臣秀吉はこの地に築城し、全国から大名が参集して一大出兵基地となりました。先生はスンオンさんにいろいろと核心をついた質問をしておられたようでした。韓国語ばかりの会話でしたから、私にはむつかしかったです。博物館のあと、天守台から壱岐を眺め、韓半島への近さを確認し、また城下の入り江に2千艘以上もの軍船が集結したことなども興味を持たれました。

 次に呼子大橋を渡って加部島へ。ここでは島をぐるっとめぐって玄界灘を眺め、田島神社に着きました。以前は橋がなく、船で大鳥居の下に着岸し、そこから見上げる
田島神社大鳥居から石段を見上げるご夫妻
石段が荘厳であったことなどをお話ししました。
いわゆる宗像三女神がここでもまつられていますが、神話などにも深い興味をお持ちです。

 次に橋を引き返して日韓トンネルの試掘坑の入り口を見に行き
日韓トンネル調査坑入口にて
ました。日韓トンネルにも興味を持たれていろいろお尋ねになりましたが、案内人の姿もなく、私たちではまともなお答えも出来ませんでした。







 翌17日はふたたび呼子へ走って唐津市鎮西町の加唐島へ渡ります。武寧王交流委員会の浦丸さんに連絡して島での案内者手配を頼んであります。11時の船に乗り、島では中里さんが待ち受けてくださって、車で案内してくださったので、坂道が苦手な私はずいぶん助かりました。

 韓国の昔、百済の第二十五代王・武寧王というかたが、この島で生まれたという記述が『日本書紀』に出てくるのです。このことは私もこのページに以前書いていますので興味のある方はバックナンバーをご覧ください。
 生誕伝説のあるオビヤ浦では、小さい入り江に打ち寄せる波が韓国から運んできたらしく、浜辺に散らかるゴミのほとんどに
武寧王生誕地にて礼をなさる先生
韓国文字が記されていました。先生は、これこそこの波が韓国からここへ流れて来ている証拠を実感したと言われて盛んに写真を取られました。また美しい海や静かな入り江の風景もお気に召したようでした。しめ縄のはってある洞窟ではひざまずいてお辞儀をされ、感動で涙が出たとおっしゃいました。
 主人が、「韓国人の多くが自分たちの王様が日本で生まれたという説に対してあまり好意的ではない」と話すと、「そんなに心の狭いことではいけない。その頃は韓国だ、日本だという国家意識はない。玄界灘一帯は一つの文化圏としてとらえなければならない。生誕伝説には信ぴょう性がある」と言われました。調査団を派遣したいとさえ。

 次にすぐそばの武寧王の産湯の井戸といわれる小さな井戸を見て、崖をあがり、ついでに島の北端まで行きました。昼食もせずに1時の船で呼子に戻ります。呼子で小さな食堂を見つけて、もっといいところにしましょうという私たちを押し
久里双水古墳にたたずむ先生
切ってうどんを召し上がりました。そのあと古墳をみたいとおっしゃるので唐津へ戻って久里双水古墳へ。

 ここでも、「ナジュにこれと形もサイズもそっくりの古墳(前方後円墳)があり、残念ながら注目されていなくて放置されているが、やはりひとつの文化圏である証拠だ」とおっしゃいました。この古墳では子どもたちが草スキーをして遊んでいました。私は、この古墳が発見された時のいきさつや、被葬者をなぐさめるために韓国のムーダンの方々を招いて祭祀をしたことをお話ししましたら面白がられました。後円部の高いところがお墓で(石室や副葬品がみつかっている)、その前の前方部の四角形の台地を舞台としてここで祈りやお供え、歌舞があったとお話しすると、前方部と後円部の位置関係や、なぜこんな形になったのかについていい勉強したとおっしゃってくださいました。夕方近くなって寒くなるまでいつまでも古墳のうえにたたずんでおられました。「宇宙の歌」を聴いておられたのでしょうか。

 そのあと、相知へまわって鵜殿岩屋(1200年前の真言密教の修験道の場所で多数の仏像が岩に彫ってある)へご案内しました。中国の古典がご専門で空海のことに詳しい奥様のためです。弘法大師の中国でのことを韓国人である奥様・チェヨンエ博士が研究しておられるのですね。日本中ここかしこにある弘法大師伝説の土地の一つをじっくりご覧になりました。そのあと近くの医王寺にもよって薬師如来を拝みました。ここの県文化財の肥前鐘を見て明日の朝鮮鐘との比較に備えます。

 最後の日はまず鏡山へ登ります。ここは万葉集にも歌われた松浦佐用姫伝説のひれふり山です。
任那(みまな)への救援部隊として船出する夫・大伴狭手彦を見送って佐用姫がヒレを振ったという伝説です。ここでも任那と日本の一体感を強調され、また、佐用姫が振ったヒレは厄を払うものだとおっしゃいました。私は常々そうだと感じていましたので、とてもうれしかったのです。有名な佐用姫茶屋の甘酒をいただくと、「ここのもおいしいがシッケなら私の母の作ったのが世界一おいしい」とおっしゃいました。私も韓国風の甘酒のつくりかたを勉強したいと思います。どなたか教えてください。

 鏡山の下には恵日寺という曹洞宗のお寺があります。ここで美しい庭園と、朝鮮鐘(国指定重要文化財)を見ます。ここでは鐘
朝鮮鐘を撮影中
の銘の部分に大変驚かれ喜ばれました。この銘にはこの鐘が巨済島(韓国・コジェド)のある部族が高麗の顕宗17(1026)年にお寺に納めるために作った旨の記載がありますが、その部族がこれまでは差別を受ける部族で奴隷のようなものだったと解釈されてきたそうです。トオル先生はこの説を否定しておられて、今回この鐘を見て、その部族が鐘を鋳造してお寺に納める、もしくはお寺さえ建立したかも知れない力と富があったとすると、決して奴隷の集団でなかったことを示唆するものであるとおっしゃって手帳にたくさん書きつけていらっしゃいました。こんなことから歴史上の問題の解決の糸口がみつかればいいですね。先生は独り言で「なぜこの鐘がここにあるか?」と韓国語でつぶやかれましたが、私はドキッしてわからないふりをしました。なぜなら、おそらくこの鐘がここにあるのは中世に倭寇が中国、韓国の沿岸を襲って略奪行為を働いていたからだろうと聞いたことがあるからです。先生もすぐにご自分でそのことに思い当られると思います。


 お昼過ぎには電車にお乗せしないといけないので昼食をと云いましたら、ご飯はいらないから古墳をもう一つ案内しろとおっしゃる。恵日寺の近くに島田塚古墳があるはずで昔の記憶をたどって探したけどわからない。入口の表示はみつけたけど、肝心の古墳がなく、うろうろしていたら近所の若者が出てきて案内してくれました。周りに住宅が出来たために見えなかっただけで、恵日寺のすぐ隣でした。ここもとても小さいながら前方後円墳で、横穴式の石室です。島田という名に何の意味があるかと尋ねられましたので図書館長に電話しましたが、古くからの名称ではないそうで、残念がられました。


 藤の花房が下がる、のんびりとした雰囲気の無人駅・虹の松原で空港行きの電車にお乗せしました。「たくさん刺激をいただきました」とおっしゃっていつまでも手を振って下さいました。
この三日、天才の膨大な知識から出る矢つぎ早の質問に私たちの頭はパニック状態でしたが、なんとか御役目を済ませました。
 
 今回の旅のみやげにと、書いてきて来て下さった額縁は今、洋々閣の玄関に掛けています。文人画に賛が添えられ、その文
洋々閣にいただいた額
章には洋々閣の文字も見えます。ありがたいことでございます。どなたかお越しくださって賛の漢文を読み下してくださいませんか。私たちではところどころしかわかりません。また、最新の随筆集『鶏林随筆』もサインをして下さいました。韓国語を「ヨルシミ コンブハセヨ」(熱心に勉強しなさい)と書いてあります。とてもとても30年経っても読めそうもありませんが、このページの一番上に短い一節を訳してみました。粗末な訳をお許しくださって、哲学者の日記がどんなものかチラッとご覧ください。

 東アジアが一つの文化圏として共同体をつくってこそ日本も韓国も中国にも未来があるとおっしゃったことがいつまでも耳に残ります。今、韓国の軍艦の沈没問題で朝鮮半島は緊張を高めていますが、こんな時こそ思想家・トオル先生のご発言が重要でしょう。「たびたび命の危険を感じながら政治批判もやっている」と笑いながら言われましたが、小柄なおからだのどこから出るのかと思えるような激しいカリスマ的な演説をインターネットの動画サイトで見ながら今日も先生を思い出しております。先生はこのあとの10年は後進のために中国古典を詳しく注釈し、その後10年で日本の古典を注釈するというご計画だそうです。どうぞご無事でアジア文化圏の一体化にご貢献ください。


 では皆さま、読んで頂いて有難うございました。また来月。ごきげんよう。






今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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