#130
   2011年1月

    謹賀新年

    #1 御挨拶
このページは色々な方のご協力をいただいて
唐津のお土産話をお届けするページで
す。
バックナンバーもご覧ください。



馬渡るキリシタンの島
―唐津市馬渡島(まだらしま)―



 ・・・・・・・
 たとえばその組織はトモギ村では次のようなものでした。信徒たちの中から一人の長老がえらばれて司祭のかわりを代行するのです。私はモキチに教わったそのままをここに書きましょう。
 昨日、砂浜で出会った老人は「じいさま」とよばれて、一同の最高の地位を占め、身を清らかに保っているので部落で新しい子供が生れると洗礼を授けます。じいさまの下には「とっさま」という連中がいて、ひそかに祈りと教えとを信徒たちに語りつたえるのです。そして「み弟子」といわれる部落民は消えようとする信仰の火を必死でともし続けているのです。


                             ―遠藤周作著 『沈黙』より―


 
 皆様、あけましておめでとうございます。
お元気で平成23年をお迎えになったことと思います。
今年はうさぎ年。でもなぜか、このページの年頭は馬なのです。
 日本に初めて馬が渡って来たという伝承のある島、それが唐津市の西の沖合に浮かぶ「馬渡島」。隠れキリシタンの島でもあります。私が行きたくてたまらないのに、船に弱いために渡れない島、それが、馬渡島。それで、いいこと思いつきました。メール友達の松尾邦久さんは、鏡山の頂上の「さよひめ茶屋」のご主人。いつも玄界灘の島々をお得意のカメラでとらえておられます。これまでもわたしのページに何枚も写真を使わせて頂いています。この松尾さんにお願いして馬渡島に行ってきて頂きまして、美しい写真をたくさん撮って来て下さいました。
お楽しみください。





 
馬渡島写真紀行
松尾邦久

鏡山から上場の西に馬渡島を見る


定期船の行く手に近づく馬渡島


馬渡島教会堂

 馬渡島と書いて「まだらしま」とよむ玄海灘に浮かぶ佐賀県で一番大きなこの島は、大陸より馬が一番最初に来たので「馬渡る島」と伝わっていると島の人が話してくれた。(実際、藩政時代は馬の放牧地でもあった。) 唐津市の鏡山から見ると、西の台地の上に山のように見える。 約180世帯500人の島は漁港の近くは観音堂を中心に、山手は教会を中心にした人々の暮らしがある。 島へは呼子港から名護屋港経由の定期船(45分)が通う。 今回私は、はじめての馬渡島を駆けて来た。

馬渡島教会堂の内部
 
 馬渡島のカトリックの信者は1600年ごろ、遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となっている長崎県黒崎から移住してきた人たちの子孫とされている。 当時、宣教師は自由に国内を旅行できなかたので、島を訪れる司祭はいず、信者たちがひそかに長崎に出かけて行っていたらしい。 明治になって神父達の行動が自由になると、外国人神父による布教活動が活発になり、明治13年には島で初めての洗礼が行われた記録がある。
 
馬渡島教会堂は主任司祭ヨゼブ・ブルトン神父(1875~1957)時代に、長崎県平戸の紐差町(ヒモサシチョウ)から移築再建したものとされている。 その際に鐘塔が新たにとりつけられ、大きな丸柱の立派な洋風の木造建築が完成した。 現在、長崎の教会群とともに世界遺産へ登録する動きもある。  また、ここには1946年から1959年までカトリックの小中学校、「海の星学園」があった。過疎化で閉校となったが、たくさんの卒業生が巣立った。

 


番所の辻展望台から見た壱岐水道

 馬渡島の最高峰は「番所ノ辻」、標高237.9m (港から舗装された道路を徒歩40分ぐらい)。幕末には黒船の来襲にそなえ遠見番所を設け、日露・太平洋戦争の時は目の前の壱岐水道の見張所があったそうだ。 現在は雑木が茂り眺望が開けていない・・・・残念だ


番所の辻展望台


緯度計測標                  1等三角点
番所の辻展望台らみた塩屋ノ浦  番所ノ辻の三角点のそばには旧海軍水路部が明治期に海図をつくるために天測を行った時に設置した「緯度測定標」が残っている。




観音堂

 港の近くにある観音堂は近所の人たちが毎日お参りする。 特に女性の信仰を集めている。 ちょうどお参りに来た女性が、「観音堂にお参りするおかげで、島の女性はみな安産で事故もない・・・」と話してくれた。 北部九州にはこの種の観音様信仰が多い。
 さて、観音堂には泉屋花子、楓田本真尼の二人の女性の写真が飾ってあり、観音様と同じく大切に祭られている。 大正7年の島の大火は海から吹きつける強風で火の勢いが強く、港周辺の多くの家を焼きつくす大惨事となった。 全国からたくさんの義捐金や品物が送られた。 そのなかに大阪で木綿問屋を営む泉屋義三郎・花子夫婦がいた。 島との関係はよくわからないが日用品を楓田本真尼という老尼に託された。 この時、観音堂の観音様が壊れているのを見て、京都まで持ち帰り、自ら寄付を集めて修理して、それを持参して観音堂に納められた。 泉屋夫婦と老尼と島の関係は三人が亡くなるまで続いた。 花子夫人は観音堂も改築され、水が少ない島のために井戸を掘られ、島に水道ができるまでこの井戸を大切に使っていた。 この井戸は花子夫人に因んで「花の井」と名付けられ、井戸がなくなった今は記念碑が建てられている。



観音堂は港近くの女性たちが毎日集まる


花子夫人の名前が由来の「花の井」.
島に水道がないころは大切な水源だった。



馬渡島小中学校
 現在は港に近いところに市立の馬渡小中学校がある。全校生徒は50名くらい。行事には島のみんなが集まり、島の暮らしの中心になっている。この学校のホームページの「小中NEWS」で島の最新情報が入手できる。

http://www3.saga-ed.jp/edq13352/

馬渡島をあとに

写真取材日 2010年10月13日 撮影 K.Matsuo


地図作成 2010.10 K. Matsuo
上の図は江戸時代に描かれた「肥前州産物図考」のうち馬渡島の放牧の様子



 松尾さん、有難うございました。いつか私も馬渡島に渡って、教会と観音堂にお参りをしたいとおもっています。風の吹かない日に、波がなく、鏡のような玄界灘をわたって。馬だって渡ったなら、私だって・・・。この頃はイノシシが沿岸の島々へ泳ぎ渡るそうですね。へ~。昔、藩の放牧場だったこの島には、今、野生化したヤギがたくさんいるそうです。島の周りは、もちろん、釣り人の好むスポットがたくさん。イカやアジが特別においしいらしい。
・・・行きたい!
 では皆さま、ごきげんよう。本年が良い一年でありますよう。また来月お会いしましょう。







今月もこのページにお越しくださってありがとうございました。
また来月もお待ちしています。



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