#137  2011年8月

このページは女将が毎月更新して唐津の土産話や折々の想いをお伝えします。
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女将ご挨拶#1




風吹く夕べ、北満の・・・・
―満州よりの引き揚げ―


旧・北満州の広野 撮影:田口亮一

 また8月が巡って来ました。このページの8月号に例年戦争のことを書いていますが、今年も又そうしたいと思います。戦争を知らない世代、私も含めて、が大多数になった今、少しでも戦争を語り継ぎたいと願うからです。
 今回は、主人の高校の同級生で現在は大野城市にお住まいの田口亮一さんに満州からの引き揚げについての原稿を頂きました。これは田口さんが数年前に引き揚げ仲間と交わされた覚書です。同時に田口さんから満州引き揚げに関する本や資料をたくさん貸していただいて読みました。なんとも言えず苦しい読書でしたが、『大地の子』や『朱夏』でしか知らなかった事をさらに生の声で知る事が出来るのはありがたいことだと思います。
 では、皆様もどうぞ最後までお読みくださいますよう、お願い申し上げます。




  日本国敗戦後62年を追憶して記す   田口亮一
(平成19年記)


1.母と妹の死 ―避難途中の同行者から伯父への知らせ―


 私は昭和20年8月の敗戦当時、旧満州国安東省安東市(現丹東市)安東中学校1年生で、古賀定男伯父(母の兄)の許に下宿していた。
母と妹
 昭和20年11月頃に母と妹の死(自決)について母と妹の避難同行者が伯父を訪ねて来て状況報告をしたことから仔細が判明した。
 当時、父は同年6月に43歳で赤紙召集され、消息も不明であったため、伯父は何度も安東に引き揚げるように母を説得したが、父が興安南省興安街(旧王爺廟・現ウランホト市:内蒙古自治区)の蒙民厚生会専務理事(理事長は蒙古人でお飾り)をしていた関係から、母は当会に勤務している職員・家族の方々を残して、責任者の妻としては引き揚げられないと頑なに断っていた。また、父の後輩の興安省高官が心配して列車での避難も断り、結局、最後の手紙(遺書:8月9日付け:ソ連対日宣戦布告の日)を書いた6日後の8月15日に自決した次第です。
 自決した場所は、興安街から270~280キロ離れた黒龍江省五廟子駅(現平洋駅)の西方1キロの道路脇で、避難の途中に荷馬車を囲んで休憩中の男性4人と女性・子供の20人位の一団が屯してい
興安(黄色部分)
た。その場所に後方から砂煙をあげて騎馬団が追い掛けてきたそうだ。これは大変だと、母は略奪する非道な匪賊または暴徒と思い込み(その頃、興安東開拓団村が匪賊に襲われ住民殆どの400人が殺害されたとの流言:事実は相当数の人が略奪、強姦、殺害された)、もう駄目だと同行の方々に集団自決を提案したそうだ。しかし、他の方々はただおろおろするばかりで、どうしようもなかったので、一行の規範としての思いで、妹の京子に覚悟をさせて護身用小型拳銃(ブローニング)で京子を撃ち、自分も口中に撃ち込み見事に自決したそうだ。母の手元が狂い、妹は急所をはずれ、まだ息があり、苦しそうに「お母さん、お国のために立派に死にましょう。」と言っていたそうだ。そこで同行の男性は助かる見込みが無いので、涙を流しながら止めを刺したそうだ。
 その後、騎馬団が追い着いてきたが、実は村の自警団で略奪・暴行はせずに事情を聴取したそうです。
 その後、他の方々は苦労しながらも無事引き揚げた。
 結果としては、母の「玉砕するとも瓦砕せず*」との信念と避難する一行に対する責任感と日本人として恥をかきたくないという強い気性が早まった自決につながったことと思う。(*下記の母よりの最後の手紙に出る言葉)
 母米子亨年32歳、妹京子11歳の生涯だった。
 話を聞いて伯父は号泣・・・(伯母や従兄弟・従姉妹は父の泣いたことは見たことが無いと言いながら共に涙した。) 私は滂沱の涙のみ・・・



母の最後の手紙
(遺書となる)

昭和20年8月9日(投函)
差出人:満州国興安総省興安街代用官舎2号   田口米子
宛先:満州国安東市西山手町107-18  古賀定男様、キミ子様




 お暑さもきびしき折から皆様お元気でいられませうか。
 玲子ちゃんお帰りの由、おにぎやかでいらっしゃる事と蔭ながらしのんで居ります。忠芝ちゃんも近くお帰りの由、うらやましく京子と語って居ります。とう~ロシヤと戦いに成りました。全身ひきしまる思いで胸がいたい様です。私共、必勝の信念で頑張ります。
 外食券、先日、200枚お送りしましたが着きましたでせうか。
 知人の方が新京へ送ったら、手元へ参らぬとか聞きましたので案じて居ります。三百枚同封します。三百円、取りあへずお金が、主人が留守で手元に有りませんので、別途、為替でお送り申し上げます。
 当地はロシヤが満州攻撃の通路の一つとか聞きますので、皆さんと最後まで頑張るつもりです。
 玉砕するとも瓦砕は致したく有りません。
 どうぞ亮一をおねがい申し上げます。
 いつもお世話様に成りまして、ほうとうに申し訳も有りません。くれぐれもおねがい申し上げます。
 日本民族興亡の折から一人をも助けて頂きたく厚くおねがい申し上げます。
 皆様お元気で、ご自愛ご奮斗のほど切にお祈りします。
 取り急ぎ、隣組の仕事が参りましたので、これにて失礼申し上げます。        

        米子
 
 兄上様
 姉上様






地図:竹村茂昭誌『興安鎮魂の譜』巻末より



日本の白萩


母と子が共に仆れし草原の花は日本の白萩に似て
大櫛戊辰『葛根廟巡礼記』より


2.敗戦から54年振りの平成11年6月19日の墓参

当時の葛根廟(写真:ウィキペディアより)
 葛根廟事件:ソ連は国際法を無視し、一方的に日ソ中立条約を破り、昭和20年8月9日、旧満州国に侵攻、興安を爆撃、徒歩で興安から白城子へ避難中の民間人を葛根廟の草原で、ソ連戦車部隊が無差別に機銃掃射し、抵抗も無いのに銃剣で女・子供まで刺殺し、その数1,000人以上・・・・・

 ソ連は捕虜の将兵ばかりでなく、人狩りで集めた中学生をも員数合わせで拉致し、邦人50万人をシベリア開拓に振り向け、零下数十度の凍土(ツンドラ)の上の強制収容所で過酷な労働を強い、6万人の人々の尊い生命を奪ったのです。
 私は、ソ連を絶対に許せませんし、信用もしません。世界で一番嫌いな国です。



 平成11年6月、旧満州興安南省ウランホト市友好訪問団(18名:葛根廟事件の生存者他関係者)の一員として参
加し、母と妹の墓参がかないまし
訪問団記念撮影 (筆者は前列一番左のブルーのシャツ)
た。


 6月19日朝6:00 中古の日本製のスズキのジープを借り上げ、満州人の運転手と朝鮮人の通訳を雇い出発(前日にやっと黒龍省への査証取得)・・・
 行程:往復540キロ・・天候は小雨後晴れ
 往きは運転手も慣れていない道路で舗装もない泥道、目的の平洋まで着くのに難航。約7時間掛かる。平洋は田舎町で、駅前の茶店でお茶にやっとあり付けましたが、表に出ると20人位の人が私達を目指して集まってきた。日本人は50年くらい見てないそうだと通訳が耳打ちしてくれました。物珍しさで囲まれたが、悪意はなく、通訳に墓参の事情を説明させたところ、皆、納得の模様で、親切に自決場所のあたりを運転手に教
五廟子(現・平洋)の町とジープ
えてくれたが、その事件は知らなかった。
 その場所あたりに行ってみると、道路脇の畑の小さな空き地があったので、土壌をならして、母と妹の死場所と思い、野の花を飾り、持参のろうそくを灯し、線香をつけてから、日本酒を土の上に振りかけ、妹には日本から持参の干菓子をお供えした。
 周囲は、田んぼや畑に街路樹、道路の向こう側は鉄道線路で、私は緑に囲まれた墓前(冬は雪の中の)と思って、般若心経を大きな声で読経して、しばらく佇んでいた。やっと、母と妹に「兄ちゃんが来たよ。やっと会えたね」「僕の終戦は今終わったよ」「安らかに眠ってね」・・・後は涙がなかなか止まらなかった。
 持参した袋に少量の土を入れて懐にしまい、お経本を土中に埋め、やっとの思いでお別れすることとした。
平洋駅から西へ1キロ、母と妹の終焉の地


 復路は順調で14:30頃、途中で遅い昼食をとり、大草原を疾走、18:00頃、人工湖(ダム)で他の団員と合流した。皆さんは私が日本人が訪れたこともない場所に行ったので、大変心配していたそうで、目的を果たした私を見て、「万歳!万歳!」と拍手で迎えてくれました。
 私は、皆さんと一緒にウランホト市の南にある人工湖のダムを見学した。夕日が山並に消えてゆく光景は壮大で、自然の美しさは私の心を和やかにした。
 宿泊の興安のホテルに18:45頃に無事到着。
 劉運転手(中国人)、金通訳(朝鮮族)は両人とも善良な人物で、用意していた日本製腕時計をプレゼントしたら大変喜ばれました。査証、墓参旅行の手配をしてくれた満都呼さんは中国安盟外事弁公室科長兼ウランホト旅行副社長であり、さらに外国人旅行者の監視人でもあった。
 上等のブランデーは手土産、費用も結構掛かりましたが、所期の目的は適いましたのでよしとした。
ウランホト人造湖にてお世話になった3人と。
左から通訳の金さん、筆者、
満都呼さん、運転手の劉さん
 しかし、悪路でお尻は車のバウンドで擦れて痛むし、肩・腰は凝るし、疲労困憊でしたが、夕食後シャワーを浴び、すぐにベッドにもぐり、ぐっすりと睡眠・・・翌朝は心も体もすっきりとなりました。


 帰国後、持ち帰った「土」はお骨として田口家の墓に葬りまして、友人の和尚さんに拝んで貰い、長年の心のしこりが取れた気持ちになりました。合掌!  平成19年8月15日作成







 いかがでしたか。田口さんのつらい体験に心をおよせくださればありがたいです。
 その時13歳だった田口少年がどのように日本に引き揚げて来たのかは、私が聞き取りを致しました。

 母と妹亡きあと、安東に復員した父も八路軍に徴用されそのまま中国に抑留、生き別れた13歳の田口少年は、昭和21年9月に八路軍と国府軍とが日本人の引き揚げのために一カ月の停戦協定をした時に父の知人の家族と一緒に引き揚げ団に入ります。10月1日に安東の鴨緑江を下る海路ルートで満州を出発しました。安東の伯父は半年前に肺炎で急逝していて、伯母たちは先に陸路ルートで南満州のコロ島経由で引き揚げていました。

 田口少年の引き揚げ団は、40人ほどが古い小型漁船で暴風雨を乗り切り、大型の船が沈没して300人が犠牲になるなかを3~4日目に北朝鮮の西海岸のどこかの辺鄙な漁村に上陸。知人夫妻のお子さんの一人をおんぶして歩いて山を越えて38度線を越えました。2000人以上の団体が2列縦隊で乾パンを食べながらの行路です。途中で死ぬ人も数え切れないほど。国境ではソ連軍の略奪も受けながら着の身着のままで南朝鮮の小さな漁村にたどり着き、ここでは親切を受け、京城に連絡をつけてもらって、アメリカ軍のLST上陸用舟艇がむかえにきてくれて、3~4日後に順次乗り込み、高速で仁川港に着きました。
 
引揚船・興安丸
 そこから貨物列車に乗り込み、何度も停車しながら3~4日かかって釜山へ。釜山港では倉庫に収容され、チブスの発生で出発が遅れながらも連絡船の順番を待ち、引揚船・興安丸で12月6日に出港。翌7日博多港に入港し、検疫を受け、12月8日に上陸しました。頭にDDTをまかれたりしながら入国手続きを済ませ、引揚援護局から故郷への切符や国民服などを与えられ500円の支給も受けましたが、その金は復員軍人からだまし取られました。そこから唐津へ、記憶にある祖父の家にたどり着きました。祖父は引っ越していましたが連絡がつき再会を果たし、力尽きて発熱しました。マラリアと栄養失調でガリガリに痩せた少年でした。

 祖父の下で旧制唐津中学1年に編入、新制高校に変わって、昭和27年3月、唐津高校第三期として卒業。尼崎の叔父を頼って進駐軍等でアルバイトをしていましたが、昭和28年になって消息の知れなかった父が中国から無事に戻って来たので唐津に帰り、公務員試験を受け長崎の税関で働きました。のちに東京税関に転勤し、働きながら中央大学を卒業。東京税関、福岡税関職員として勤めあげ、今は悠々自適、妻と娘二人、孫6人の幸せな生活を送っておられます。
 これほど辛い体験をされたとは信じられないほどに優しい笑顔の、円満な人格者です。「おふくろが僕を医者にしたがってたのに、それだけが残念」とこのたび私に話して下さいました。





 もう40年も前になるでしょうか。お茶の青年部の先輩たちにつれられて、会議のあとなどに「磯香」という小料理屋に時々行きました。内山磯乃という名のママさんは当時50歳前後だったでしょうか。その間、この方が満州引き揚げという事を知りました。なんでも満州で夫と生き別れて、命からがら引き揚げて来て、ずいぶん後に消息がつかめたけれどもすでに相手は家庭持ちになっておられたとか。当時20代半ばの私には理解できない、けれども、なぜか忘れられない話として、心に残りました。ママさんが酔いにまかせてたまに小声で口ずさんでおられた歌、「風吹く夕べ 北満の ボグラニチナヤの丘に立ち 見下ろす平野 グロデコー ソ連のトーチカ ほの見ゆる」という曲はいつの間にか私の中にインプットされ、40年経った今でも3番まで覚えています。今日思い立ってネットで検索してみれば、この歌は「綏芬河(すいふんが)小唄」というらしいです。2、3番は私の記憶とちがうけれども、おそらく当時のはやり歌というものは人口に膾炙していくうちに替え唄などが次々に生じて行ったのでしょう。ママが御存命かどうかわかりませんが、今なら身の上話を充分に聞いてあげて、一緒に泣いてあげられるような気がします。
 宮尾登美子さんの『朱夏』には中部満州からの引き揚げの話が息をのむ描写で書かれていますが、今回田口さんの紹介で読んだ何冊かの北満からの引き揚げ者の体験された想像を絶する虐殺や苦労は、夏の夜の読書を肌寒くするものでした。 田口亮一さんにとって8月15日はただの終戦の日ではなく、「敗戦の日」であり、お母様と妹様の「自決の日」であるわけです。このような不幸が繰り返されないように、戦争を語り継ぎ、私のように遅まきながらも戦争を追体験し、絶対にイヤだと思う人を増やしていかなければならないと思っています。
 

 心重いものを読んでいただいて有難うございました。


田口米子さん、京子さんの自決の地を訪ねて行く道 撮影:田口亮一

 私には一生行くこともないだろう満州の大地を想像しながら、「風吹く夕べ・・・」と口ずさみつつ、お別れします。来月もまたお目にかかれれば幸いです。


参考
大櫛戊辰著『殺戮の草原 葛根廟巡礼記』1996年崙書房出版株式会社
大嶋宏生著『コルチン平原を血に染めて  少年が目撃した葛根廟事件』2000年葦書房
竹村茂昭誌リーフレット『興安鎮魂の譜』平成6年5月
宮尾登美子著『朱夏』集英社文庫
読売新聞コラム『こちら社会部 葛根廟の惨劇上、中、下』昭和58年8月13日~15日
毎日新聞コラム『遠い祖国 中国帰国者はいま1~28』昭和61年9月10日~11月13日
旧満州の悲劇を考える会石松豊彦編『旧興安国民学校児童と葛根廟事件の遭難者がたどるウランホト市友好訪問団写真情報』1999年6月27日
松山善三著『鴨緑江は眠らない』 雑誌『宝石』掲載

内蒙古の草原





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