#156
   2013年3月

  

平成24年の桜

このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や、
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。
バックナンバーもご覧ください。



平原の花咲爺さまたち

―上護岳桜公園物語

弥生3月。うれしいひな祭りが終わると、サクラ!
うきうきと、今月号は唐津市平原(ひらばる)の上護岳(じょうごだけ)桜公園のおはなしです。
陽気に誘われ、人情に招かれ、ちょっと、上護岳まで、ご一緒に登ってごらんになりませんか?
そこでお会いする花咲爺さまたちは、穏やかな笑みをたたえて、6、70代とはいえ気持ちは少年の純粋さで会う人の心をあたたかくします。
志田原浩さん
では、登ってみましょうか。お弁当、持った?

(今回、平原座主(ざす)にお住まいの志田原浩さんに原稿を頂きました。また、稲毛秀治さんに写真のお世話を頂きました。
お楽しみ下さい。)




みかん山
 皆さん、こんにちは。私は上護岳桜研究会の会長の志田原浩といいます。
 ふとした御縁で私達の桜公園の事が唐津市の老舗旅館洋々閣のホームページに紹介されることになりました。女将さんに励まされて、最初は張り切っていましたが、世界中の皆さんに何をお伝えするのかだんだんわからなくなりました。現場の者でなければわからない事を書いたらとアドバイスを受けました。下手な文章ですが、よろしくお願いします。

 私達が暮らす唐津市浜玉町平原は四方を山に囲まれた静かすぎるような山村です。若いころは過疎化なんてよその事とたかをくくっていましたが、時代の流れに例外はなく現在過疎化が徐々に進行中です。

 私の子供時代(私は1945年生まれです)から五十歳くらいまでは、ここ平原は有名な温州みかんの産地でした。その時のみかんブーム以前からみかん栽培が行われた先進地として視察者も絶えず、また秋から冬にかけての収穫期にはみかんちぎりの人夫さん達で大いににぎやかでした。五月には香ぐわしいみかんの花の香りがただよい、みかんの熟する秋には全山オレンヂ色に染まった時代が今では思い出となってしまいました。

 供給過剰とオレンヂ類の貿易自由化により価格暴落し、みかんでは生計が立たなくなりました。現在では栽培面積、生産量とも全盛期の1割にも満たないと思っております。当然、かっての美しいみかん畑が、竹やかづら類のはびこる荒れ放題の山と化し、私達は日
唐津湾を一望
ごろから心を痛めておりました。

 2000年に私は座主地区の区長に選出され(平原は7つの地区に分けられています)、それぞれ個性あるすばらしい区長さん達とのお付き合いが始まりました。皆思いは同じで、かつての平原のにぎわいを復活させたい、荒れ放題の山里を何とかしたいという事が最大の懸案事項でした。いい考えも浮かばないまま役職もそろそろ卒業というころ、仲間のひとり、諸岡弘嗣さんから、「うちの山を自由に使ってくれ」と申し出がありました。

 早速現地に出向いたところ、そこは上護岳(じょうごだけ)と呼ばれる山の山頂でした。そこからの眺めは、唐津湾、虹の松原、鏡山等を一望できる絶景の場所でした。考えた末にここに桜を植樹して日本一の桜の名所にしようということになり、それが「上護岳桜公園」誕生のきっかけです。

 以来、私達は荒れ放題の山の地ごしらえに挑戦することになりました。諸岡君の土地に加え
地ごしらえ
て、6名のかたの所有地も借り受け5ヘクタールを越す広大な面積となり、ちょっと恐ろしく思う事もありました。本業の農作業の合間にというよりも、公園造りを優先して作業をしたようにおもいます。初代会長、平尾禧和さんの苦労も大変なものでした。伐採した雑木、防風林、竹等の焼却(山焼)には妻達にも山に登ってきてもらい、山火事を起こさないように、夜までくたくたになりながら頑張りました。

 そして、2002年より5ヶ年にわたりソメイヨシノおよび山ザクラを8000本植樹致しました。これで、一安心というわけにはいかず、今度は桜の苗木を覆いつくす雑草の草刈り作業に追われることになりました。蜂に刺されたり、あぶや’せせり’を追いながら、汗びっしょりになりながら頑張ったものです。

 思い立ってから13年経過しまして、ようやくその雑草も制し、見上げるように立派な桜に生長してまいりました。3月下旬より4月初旬にかけまして全山うす紅色に染め上げる桜を見ると、感傷的な私は涙が出てしまいます。苦しい事ばかりではなく、楽しいことも沢山あります。何よりも素晴らしい仲間と作業後に飲むお酒のおいしいこと。これからの平原につい
山焼
て話し合う事、皆で有名な奈良の吉野山へ2泊3日の視察旅行に行ったことなど、忘れられない思い出です。

 これからの課題が山積です。私達は山の手入れは大得意ですが、渉外活動がまるきり駄目であります。公園の宣伝活動や、訪れるお客様への対応が苦手で困ります。公園に至る道路も不十分です。私達の力ではどうにもならない事ばかりですが、いつの日か大きくなった桜が解決してくれるかなと、あまり心配しないようにしています。

 現在のところ今坂地区まで車で来られたら、元気なおかたはお弁当を持ってどうぞ歩いて登山して欲しいなと思っております。10分足らずで頂上に届くと思います。健康つくりにいかがでしょうか。園内には作業道を兼ねまして約100メートルの遊歩道もございます。どうしても車でというお方は、なにぶん離合場所が不十分です。ゆっくり徐行程度のスピードで上り下りして下さい。花見シーズン中は、7~8個の案内看板を立てております。トイレは簡易トイレ1カ所です。山のてっぺんで、春とはいえ大変寒い時があります。防寒対策もお願いしま
平成24年4月  ここまで成長した桜たち
す。山上には仲間の一人、稲毛秀治さんがささやかなお店を出します。

 花見シーズンは10日あまり、あっと言う間に過ぎ去りますが、初夏の青葉、秋の紅葉もなかなかのものです。何より、山頂からの展望は一年中です。 私達が皆様のお世話は何も出来ませんが、それぞれの楽しみ方でどうぞ心を癒して下さい。

 とりとめのない長い文章で失礼致しました。今後とも上護岳桜公園をどうぞよろしくお願いいたします。

仲間たち

平尾禧和、美枝子
稲毛秀治、ツヤコ
志田原浩、絹子
諸岡弘嗣、八千代
吉原秀一、清子
中山繁男、道子





 

 
みなさん、いかがでしたか?
心打たれたかたも多いことでしょう。自分の損得でなく、子や孫の時代のふるさとを考えて木を植える人々を、私はありがた尊く思います。

 志田原さんとお会いして、私は宮沢賢治の童話『虔十公園林』を思い出しました。虔十(けんじゅう)がこの土地では育たないと人にばかにされながらも700本の杉を植えて守った林は、死後何十年ものちに真の評価をうけるのです。ストーリーの最後では、賢くないと思われていた虔十が真の賢者であったことを悟られるのです。

 平原は昔から偉人がたくさん出ています。江戸時代には武家の子だけでなく、農民の子にも塾で学問を教えた所です。虹の松原一揆を主導して成功を収めたのも平原の大庄屋・冨田才治でした。私は、平原のこの何人かの花咲爺さま達は真の賢者だと思います。どうぞ皆様、今年の花見は上護岳に登ってみて下さい。上の写真の道をたどれば、桜守のみなさんの暖かい笑顔に出会えます。起伏のある道で、車イスの自力での走行は少々むつかしいかもしれませんが、押す人がいれば大丈夫だそうです。

お読みいただきありがとうございました。
また来月お目にかかりましょう。



  今月もお越しくださってありがとうございました。
  また来月もお待ちしています。
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