#166
   2014年1月

  

田中丸勝彦氏

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お正月 故・田中丸勝彦氏の民俗学レポート

 明けましておめでとうございます。
お元気で良い年をお迎えになった事と思います。

 今回は、私の高校時代の一年後輩で、生徒会活動などを一緒にやっていた田中丸勝彦氏の民俗学レポートです。
勝彦さんは、高校時代、いわゆる「のぼせもの」であり、学生生活を熱くエンジョイしていた人でした。文芸部の部長でもあり、見かけによらず静謐な歌を詠む人でもありました。
 高校卒業後は国学院大学に進み、ああ、勝彦さんらしいな、と私は思いました。そして民俗学の道に進んで、学者として、特にフィールドワークで高い評価を受けておられました。
 彼の実地での検証は、まず、地域のお年寄りの中に溶け込むことから始まり、日に焼けた人の良い笑顔でドンドン村人の中に入り込み、いつの間にかそこの家に泊まり込んで家族のような顔をして古い記憶を聞き出すという手法でした。きっと民俗学ではそれが当り前なのでしょうが、特に彼は人の心をつかむ暖かい話術の持ち主でした。 

 残念なことに2000年の1月4日に突然倒れて帰らぬ人となりました。日頃から血圧が高く、自分でも危ないと思っていたのか、身の回りのことをきちんと整理して、何かあった時の指示を弟夫婦宛に書き残してあったそうです。独身で、53歳でした。

 今回のレポートは、『西日本文化』2000年1月号掲載のもので、遺稿となったものです。 この記事の転載を快く承知してくださり、写真をおかし下さった田中丸家の皆様にお礼を申し上げます。

 それではみなさま、お正月の改まった気分で、このレポートをお読みください。





初詣でのことなど
   ―お正月変遷少史―
               田中丸勝彦
    (日本民俗学会評議員、福岡県文化財保護審議会専門委員)

 子どもの頃、正月は嫌いだった。
 外に出してもらえないし、ちょっと騒いでも叱られたからである。年玉の小遣いなんぞもらったこともない。正月にもらえたのは、新しい下着と下駄、それに大人のこぶし大の餅二個(本来の年玉)ぐらいのものだった。
 
 私の本家は佐賀県小城郡の農家だが、大晦日の夕食をケゴゾロイ(家子揃い)とよんで、鰯の尾頭付きとなますで歳取りをした。この祝いの席に一人でも欠ける者があれば、縁起が悪いとして非常に嫌っていたので、大晦日の夕方は早く家に帰らなければならなかった。また、元旦の外出も禁じられていた。だから大晦日から元朝にかけて、初詣でに出かけるという友人が羨ましかった。この夜から元朝にかけて、世間に展開されるであろう、雅やかで華やかな夢のような世界を想像すると、ますます家の「旧弊」が呪わしく思われた。初詣でというものをして、玩具のひとつでも買ってもらうのが夢であった。が、とうとうかなわなかった。
 
 「猫までもおとなしカ」といわれるぐらい不気味で静かな元朝の座敷には、火鉢の炭のはぜる音だけが響いていた。オチャノーリャ(御茶直会)ののち、屠蘇、煮餅(雑煮)がすんでもまだ解放はされなかった。餅が食えるのは楽しみだったが、それも正座の苦しさで帳消しとなった。家族一人ひとりに用意された歳取り餅を掲げながら、「今年は歳になりました」とトシトクサン(歳徳様)に報告させられる。トシトクサンは妙に頭の長い爺さんで、床の間に吊るされた掛け軸に描かれていた。正午近くなって、おとなたちのカンニョーリャ(燗直会)がすむと、やっと玄関を開ける事が許されたが、このときの外の空気の清涼さは忘れられない。わが家のこんな正月は、昭和三十五年頃まで続いた。

 こんにちの常識からすれば、ずいぶん風変わりな正月である。だが、各地の聞き書きを集めてみると、同様な事例は少なくない。この「旧弊」は、どうやらわが家に限ったことではなさそうである。たとえば、福岡県宗像市でも、正月は、大戸を閉じて静かに籠っていたという。大きな物音をたてたり、掃き掃除を忌み、外を出歩くことなどはしなかった。指を外の空気に触れさせると風邪をひくので、ソーツクもんじゃナカなどともいった。長崎県壱岐郡でも「古い昔」には、家にじっとしているのが正月の過ごし方だったが、次第に出歩くようになったという。

 国立国会図書館が所有する「府県資料」をみると、明治初期の滋賀県の例で、

  従前正月元旦ニ限リ諸民門戸ヲ閉チ寂然籠居之風習有之処元来上下一般同賀之日ニ当リ右等之風俗有間敷筋ニ付自今一月一日ハ勿論其他二日ニハ平生都合ニ依リ閉居候トモ其日限リ開扉致シ豁然当日ヲ祝シ可申事
 
  とある。本来ならば家に籠っていなければならない元旦に、改暦後は門を開けろといっているのである。同資料には他にも同じような記述があるが、従来の民衆の文化を否定し、新たな正月の過ごし方を推奨している。だが、生活に根付いた民衆の風は一朝一夕に改まることはなく、昭和に入ってからも残っていた。宗像市の例やわが家の「旧弊」が証拠である。

 宗像市史編纂室が保存する記録類には、大正から昭和初期にかけて、

 一月一日新年儀式ヲ厳粛ニ行ヒ

 とか、

 新年一日ニハ、一同氏神ニ参拝シ祝杯ヲ挙グルコト。新年儀式ハ、陽暦ヲ励行スルコト

 といった文言が頻繁に出てくる。新暦正月の神社参拝を勧めているのである。ということは、まだこの頃、正月に神社に参拝するものが多くはなかったことを意味している。国際的な緊張関係によるナショナリズムの高揚が、正月の社寺参詣熱に拍車をかけたものらしい。

 その頃青年たちが盛んに三社参りをしたことも聞き書きで確認できる。これは役場や指導者(学校長、村の有力者)らの善導に従ったものだが、目的は武運長久と戦勝祈願だった。なによりも青年たちを奮起させたのは、この初詣でに限っては、処女会員と同道の参詣が公認されたことだった。人通りも途絶えた大晦日、男女それぞれのグループが間隔をおいて、夜道をたどった楽しさを覚えている人は多い。普段ならば後ろ指をさされかねない行為も、戦勝祈願という「正しい目的」のため、友人の武運長久を願うための行軍という「筋の通った」理由で、親も認めざるを得なかったらしい。これをトシゴエマイリ(年越え参り)と呼び、支那事変の頃が盛んだったという。
佐賀県肥前町の初詣で。御潮斎笹と高盛飯を供える。(平成2年)

 同時におとなたちは、神社につめてお神酒を酌むようになった。氏神のしめ縄をくぐると幸運に恵まれるというような俗信も唱えられ始め、早朝に参拝して日の出を拝み、東方遥拝をした。未明の太鼓を合図に、いっせいにオシオイトリに出かけ、これを持って参拝するというような申し合わせもなされるようになる。この拝賀式に出たついでに年始をすませようとしたこともあったが、新暦では正月の気分になれず、「おめでとう」と声に出して言うのが恥ずかしかったという。

 新暦正月のことは、官制の正月という意味で、天朝の正月・天子さまの正月、旧暦正月をジブンガタノショウガツ(自宅の正月)と呼んで区別していた。ここで確認しておきたいことは、出歩く正月や三社参りは、いずれも新暦正月におこなわれたということである。一方に旧暦正月を残しつつも、新暦正月の行事として新しく始められた行事であった。名称は同じ「正月」でも、内容的にはまったく違った行事が新たに加わったのである。そして、新暦正月は出歩く正月・公の正月・日の丸を立てる正月、旧暦正月は大量の餅を搗く正月・家に籠る正月として併存していた時期が、大正期~昭和初期であった。ところが昭和三十年頃、二つの正月が一つになったとき(旧暦正月を廃し新暦正月に一本化したときに)、神社参拝やトシゴエマイリは残ったが、本来の「家」の正月行事の多くは失われることになり、こんにちにつながる。つまり、家に籠る正月から、社寺参詣にソーツク正月へ移行したのである。

 また、こんにちではほとんど見られなくなったが、福岡県北部では、正月にスボキリモチという行事をした。これをトシトリモチ(年取り餅)・トシキリモチ(年切り餅)・ツッコミモチ(搗っ込み餅)ともいう。柔らかい餅に、塩味の小豆を混ぜて丸め、これを藁のスボで10~15センチくらいに取り分けて食べるものである。
 ただ、この行事をしたと言う日時は伝承者ごとに微妙に違っている。もっとも多いのは、餅搗きの日という伝承で、搗きたての柔らかい餅は、藁スボでも容易に切れる。ほかには、大晦日の十二時にしたという例や、元朝だという事例もある。
福岡県飯塚市のスボキリモチ。必ず酒肴が添えられる。(平成8年)

 これを食べてからでないと雑煮は食べないとか、必ず家族だけで食べなければならないという伝承も付随している。また、「おめでとう」と」挨拶してから食べるとか、年神さまに供える、厄年の者は必ず食べるなどともいった。これらの伝承から推してこの餅は、新たな年をむかえて、個々人の霊を補強する(本来の)年玉の意味を持っていたことがわかる。
 
 このスボキリモチの伝承は、聞き書きは可能だが実際に見ることは難しい。秘密裡におこなわれるような行事でもなく、多額な費用がかかるわけでもない。それが、ぴったりとなくなってしまったのである。見ることはできなくても、聞き書きは可能なのだから、近い過去に失われたことがわかる。

 やはり、この行事の消滅過程をつぶさに観察していた女性がいた。話によれば、宗像市大字東郷村では、もともと元朝にはスボキリモチを焼いて食べ、雑煮は昼食べていた。しかし昭和10年ごろ、神社の拝賀式にでかけるようになったので、元朝に雑煮を食べるようになったのだという。少量の儀礼食としてのスボキリモチでは、腹もちがよくなかったらしい。雑煮は、その名が示すように、供え終わった食べ物のごった煮である。大切な儀礼食であるスボキリモチを雑煮の後で食べるわけにはいかない。それで、雑煮の前、餅搗きのときにスボキリモチをするようになったという。彼女が結婚した頃ということで、記憶もはっきりしており、その理由も時期も正確である。
 
 つまり、本来は旧暦大晦日の行事だったのが、新暦大晦日や新暦元朝に移動し、最終的には餅搗きの夜の行事として残存していたのである。聞き書き段階で、大晦日、元朝、餅搗きの日と違った回答が得られたのは、行事の日取りの変遷過程を示していたのであった。

 近代化の過程で、わたくしどもはたくさんの民俗行事を失った。しかしまた同時に、社寺への初詣でや、三社参り、金銭の年玉、東方遥拝など、多くのものを新たに加えることができた。しあわせなことである。



 いかがでしたか。皆様の子どもの頃のお正月はどんなものだったでしょうか。
 私は、お正月の日にだけ父が来ていた大島の着物や、桐の火鉢に鉄ビンをかけて、シュンシュンたぎっていた音や、母が3日掛かりで作ったおせち料理の、とくに、茹でたうずらの玉子を海苔で巻いて揚げたものや、何時間もかけて練った栗きんとんが好きだったのをよく覚えています。今、その火鉢も、母の重箱も、わたしの手元にありますが、もう長い間使っていません。
 田中丸勝彦さんの「お正月」の記事を読んで、しばし懐旧の情に浸った私でした。
どうぞこの一年が皆様にとりまして、大切な一年となりますように祈ります。
来月もまたお越しください。




最後に、弟様からお借りした遺品の50年前の高校の文集より、勝彦さんの短歌をお読みください。



田中丸勝彦 短歌   昭和37年10月1日発行 唐津東高校文芸部 「ほのお」 第六号より
  (当時 17歳 高校2年生)
  


  ちちははのいずれが好きと問われたる思ひ出もあり夕焼小焼
  天山の峰を流るる白雲をよしと思へり父の故郷
  弟とは仲よくせよとささやきし夜汽車の窓の父の目哀し
  茜さす尾根のなだらに続きゐて母の故郷の停車場に立つ
  水無月の暑き日光に照らされてジェット機の二機雲より出でぬ
  石炭の高く積まれて玄海の港の街の春はせわしき
  くやしさに三日も飯を食わざりし昔の我の心いとしも
  友としてものうちかたるたれもなし野に来てひとり昼の月見る
  

  夕凪の 幸多里の浜 細波の 

           洗へる巌に 流木のあり
  吾がつけて 来し足跡の さざなみに
           洗はれてをり 幸多里の浜
  砂山に 半ば埋れて 朽ちはてし
           木の根に初夏の 入日赤しも

 


唐津市 
幸多里(こうたり)の浜

唐津の中心部より呼子のほうに向かって海沿いに進むと、相賀の手前にこの浜があります。勝彦さんはこの浜が好きだったようで、何首も詠んでいます。おぼろ月夜に家出をしてここに行ったという歌もあります。何十年後の今も変わらず静かな小さな湾です。釣りでもプロ級だった勝彦さんは、この近くの釣り宿の常連だったそうです。

お付き合いありがとうございました。
また来月お越しください。


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