#168
   2014年3月

  


賞状と、副賞にカメラを
いただきました。

カムサハムニダ。
このページは女将が毎月更新して唐津のおみやげ話や
とりとめないオシャベリをお伝えします。
他の方に書いていただくこともあります。



バックナンバーもご覧ください。


 みなさん、こんにちは。
 今月は、昨年冬に駐福岡大韓民国総領事館が「九州の中の韓国」をテーマとした紀行文を募集した際に私が応募したものが銀賞を頂きましたので、恥ずかしながらここに掲載させていただきます。
粗末な作文ですが、唐津と韓国との深い関係を理解していただきたいと思います。




                     時を超えて「からつ」へ

加唐島へ

武寧王生誕祭  加唐島の記念碑にて
 2011年6月4日、私たちは連絡船「加唐丸」から、唐津市鎮西町の沖合4キロの加唐島(かからしま)の桟橋へ降り立った。すでに広場にはたくさんの人が集まり、「武寧王(ぶねいおう)生誕祭」の催される記念碑のほうへぞろぞろ登っていくのが見えた。

 急がなくちゃと息を切らして坂道を上ると、韓国公州(こんじゅ)市からの訪問団代表が挨拶をしているところだった。式典がすむと、人々は広場へ戻っていく。広場の周囲にぐるりと20ほどのテントが並んでいて、どのテントにもバーベキューの炉が用意してある。受付でチケットを渡して、一人分ずつナイロン袋に入った食材をもらった。

 イカ、アジ、サザエ、タイ、小さなアワビまで、新鮮な海の幸がたっぷり入っている。すでに炭火はカンカンに熾きていて、箸、紙皿、コップがふんだんに準備してあるし、野菜は大皿に盛られてあちこちに置いてあるので、好きなだけもらってくる。おにぎりもあるし、飲み物もある。これだけ食べて、往復の船賃も入れて3000円は安いねと、食べながら話している人が多い。

 武寧王なんて知らないけど、海鮮バーベキューが人気だし、韓国の踊りもあるし、子どもたちにはゲームもあるので楽しそうだから遊びに来た、という家族連れも大勢いるようだ。年々人気が高まっているらしい。

 夫と私はほどほどに食べ終えて、さっきの坂道をもう一度登る。記念碑を通りこして峠まで上り、次に下れば、道路の左脇から細い道がオビヤ浦へ降りていく。去年来た時より道が整備されて歩きやすくなっていた。椿の多い島で、密生した椿の濃い緑の葉が初夏の日差しにまぶしい。花の盛りならどんなにきれいだろう。
オビヤ浦

 下り切ったら海だ。オビヤは小さな入り江で、ゴロゴロと丸い石の磯。砂地は少ない。そこに洞窟がある。いや、あったというほうが正確か。武寧王がここで生まれた時はおそらく洞窟だったであろうが、崩落して天井がなくなって、ちょっとした窪みになっている。しめ縄が張ってあって、ここが生誕地だとの小さな解説板が朽ちかけていた。

 昨年、ここに、韓国の高名な哲学者、キム・ヨンオク(号トオル)先生を案内した時、先生は洞窟に向かってひざまずいて額を地面につけて拝礼をなさったものだ。それから先生は、磯に打ちよせている韓国文字の入ったゴミの数々を感慨深げに眺めてこうおっしゃった。「ゴミがここに流れてきているのを見れば、海流が韓国からこちらに流れていることがわかる。船の上で産気づいた産婦を緊急に上陸させて出産させるために、船はこの小さな入り江に入ったのだろう。『日本書紀』の記述には信憑性がある。もっとちゃんとしらべなきゃいかんな・・・・・」

 この島には千数百年もの間、武寧王誕生の伝承があって、大正4年に出た『東松浦郡史』にも『日本書記』が引用されている。ただ、永い間、韓国側にそれを認めない風潮があったようだ。百済の偉大な武寧王が、倭の小さな島の洞窟の中で生まれたということを信じがたい気分が働いたものだろう。それが、1971年に公州市で武寧王陵が発見され、石に刻んだ文字から『日本書記』の記述の正当性が認識され、その後研究が進んだことにより、12年前から唐津と公州市の武寧王関係の交流
拝礼をされるトオル先生
が始まったのだ。

 『日本書記』によると、5世紀の半ば、この島で出産した女性は、当時の百済王の側室の一人であって、しかも産み月近い身重であったものを、王の弟が倭国へ友好のため(その実、いわば政治的人質として)派遣されるときに、王より賜ったひとである。もし、男児を産んだら子は百済に送り返すようにとの命令を受けていた。産み落とした子は男児であった。母と子は引き裂かれ、子は百済へ送り返された。長じて、第二十五代・武寧王となり、善政をしいて百済中興の祖とうたわれたという。

 母なる人のその後の消息や名前さえも、『日本書記』は語っていない。新しい夫と二人、大和(やまと)の都・平城(なら)に赴き、子を恋う気持ちを押し殺してひそやかに暮したものであろうか。「オルマナ、クリウォハショッスルカ・・・・」(どんなに、恋しがられたことだろうか・・・) 私は海にむかってつぶやいた。波はひたひたと寄せてくる。ひとりの女性の運命も波とともに寄せてきて、そして歴史のかなたに消えて行った。
   
      子の船は彼方に去りて海鳴りは“アイゴー、アガヤ”とむせぶがごとし

 今上天皇は平成13年12月23日の御誕生日のご挨拶の中で百済の武寧王に言及され、日本の皇室に百済の血が流れていることをお認めになるという、踏み込んだ発言をなさっている。韓国との親和を深く望んでおられることの証だと思う。陛下は、ここ唐津市の加唐島で、武寧王の祭りを毎年行っていることをご存じであろうか。韓国の人々は、日本人が武寧王を大切に祀っていることをどう思うのだろうか。
 

鏡山へ

 わが宿にお泊りのお客様を観光にご案内するとき、よく鏡山に上るが、ここは万葉集に出てくる「領布振山(ひれふりやま)」であり、伝説の松浦佐用姫が、537年、夫の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の百済への援軍として新羅出征の折、海路の安全を祈ってヒレを振ったところだ。ヒレには呪術的な力があり厄災を払うと古代韓国では信じられていたことをトオル先生が教えてくださった。そういえば日本にも、『古事記』などに類した神話が残っている。日韓は根を同じくする国だとつくづく思う。

 山頂に立てば、目の下に唐津湾が広がる。美しい風景である。外海に出ると三角波の立つ玄界灘。ここから壱岐、対馬と、飛び石伝いに韓半島へ渡れるので、太古よりこの地は半島との往来の玄関であった。時には友好的、時には激しく敵対した。

 最も古くは、おそらくこのあたりへ丸木船やイカダ程度で古代人が流れ込んできて、人種や、稲作や、鉄器がもたらされ、ひいては、千字文や仏教も渡来する。日本からの遣唐使や遣隋使も出港した。唐津が「カラへの津=港」と呼ばれる所以である。

 30年以上も前に我が家へお越しになった司馬遼太郎先生は、唐津を「唐(とう)、すなわち、中国のことではない。字より音が先だ。これは、狭義には韓(から)であり、伽羅(伽耶)だ。密接な関係があった。そして、そこを通って、広義のカラ、すなわち外国のカラテンジク、また西域までもつながったのだよ」と教えてくださった。今そのお言葉は『街道を行く』シリーズの「肥前の諸街道―虹の松原」の部分に現れる。また、同じ章に、「元寇」についての考察がある。

 1274年、当時モンゴルの属国であった高麗国が皇帝フビライに倭への侵略を進言して多数の軍船を建造し、先鋒となって対馬、壱岐、
鏡山山頂から唐津湾と遠く玄界灘を望む
博多湾を蹂躙した(文永の役)。1281年、二度目の侵攻(弘安の役)の際には、主力軍が唐津市肥前町の沖合1キロの鷹島に上陸し島民を殺戮して前線基地としたが、結局台風によって壊滅。元は日本をあきらめた。その後、この二つの役でもっとも激しく戦い甚大な被害をこうむった松浦党水軍は、元寇への報復心を募らせ、かつ、異国への関心が覚醒されたか、しだいに「倭寇」へと変身して行き、韓半島沿岸を荒らしまわって高麗を弱体化へ追い込み、続く朝鮮王朝にとっても脅威となった。この時代にこの海を渡って、通商または略奪によって多くの文物がもたらされ、仏像や鐘など、あちこちに韓国関係のものが唐津に残る。ここも平戸とともに、松浦党の一大拠点であったからだ。

 次に16世紀末には、豊臣秀吉がフビライの轍を踏んだ。太閤は老年になってから「唐入(からい)り」を夢想し大明国を攻めようとしたのだ。正気の沙汰とは思えない。だが、反対できる大名がいなかった。この西の果ての小さな城山に集結して割普請による急造の名護屋城を築き、20万の大軍が海を押し渡った。「文禄・慶長の役」といわれ、韓国側で「イムジンウェラン・チョンユウェラン」と呼ぶ、日韓の歴史上もっとも悲惨な戦いである。(1592年―1598年)“ハノベンニョン(恨五百年)”の傷跡を残した壮絶な、当時としては、世界最大の戦争であった。
 
 のちに焼物戦争とも呼ばれるようになるこの戦いは、日本に陶磁器の文化をもたらしたと言われている。私は唐津焼の茶碗を手にして茶を服するとき、ふと哀しみが胸をよぎる。連行されてきた朝鮮人陶工によって飛躍的に発展した唐津焼は、理不尽なタヒャンサリ(他郷暮らし)を強いられた彼らが涙で土を練ったものではないだろうか。悲しい器である。それだけに、魂に沁みるように美しい。
  
     うぶすなの韓(から)は見えねど秋澄みて慈母観音は海に向き立つ (唐津フジ作)



 名護屋城跡へ                                    
黄金の茶室
 2013年9月24日、私たちのグループは唐津市鎮西町にある名護屋城跡の佐賀県立名護屋城博物館を訪ねた。再々訪れる場所であるが、今回は特別展示がある。『黄金、そして茶の湯  秀吉の宇宙』というテーマの開館20周年企画だ。

 秀吉はここ名護屋の陣に来て、臣下の人心収攬のために、能や茶道を利用した。お茶は政治であった。黄金の茶室を作らせ、大名達を招いて、驚嘆させ、敬服させた。海を渡った兵士たちが慣れない酷寒の中を死に物狂いで行軍している間、茶会や歌舞音曲で遊び暮らした。

 進軍が明国へ到達するには朝鮮国を北上縦断しなければならない。到る所で戦いは熾烈を極め、半島は阿鼻叫喚の巷と化した。名護屋城博物館は、これらの反省の上に立って、新しい日韓関係を模索するために作られた博物館である。私達はまず知らなければならない。目をそむけてはならない。次いで、考えなければならない。そこから始めなければ、相互理解や許しは生まれない。

 燦然と輝く黄金の茶室を見ながら、敷かれた緋色の畳や同じく緋色に貼られた障子が私には血の色に見えて、胸を衝かれた。オルマナ、オルマナ・・・とつぶやき、あとは絶句する。ことばが見つからない・・・・あまりにも歴史が重い・・・・・。

 天守台の跡に立つと、鏡山から見たときよりももっと韓国は近く感じられる。壱岐が目の前に見えるし、空の澄んだ日には対馬の山頂が水平線から頭をのぞかせるからだ。対馬からは釜山の灯が見えると聞いた。日韓の歴史において玄界灘は常に重要な舞台となってきた。幾多の哀しみ、苦しみがこの海を渡った。韓半島へは高速船で3時間の距離である。近い。そして、遠い。この海に濃い霧がたち
名護屋城跡から玄界灘を望む
(壱岐は丸い姿の松島の左にうっすらと見えます。)
こめる時、私もまた一人の佐用姫となってヒレを振る力があるのだろうか。

 海峡に風哭き涛の騒ぐ日は術なく佇ちてカスミノムアッパ(胸が痛い)

 けれども、私達両国は、悔やんでばかりはいられない。過去を脱却して未来に向かわなければならない。

 最近、私の宿にも、韓国からたくさんのお客様がお出でになる。明るい表情でたくましく行動する若い人たちを見ると、希望が見えてくるように思う。許し合う日もかならず来るだろう。なぜなら、私達は、同じ根から生えた二つの幹であるからだ。 私自身、韓国生まれの日本人であり、終戦直後、父の故郷唐津へ引き揚げてきた。 韓国への思いは深い。

 私は、今住む唐津から、時を超えて、一衣帯水の玄界灘周辺がみな繁く往来していた「伽羅津」へ行きたいと夢見る。「仲良くしたい」、この願いが、私にこの紀行文を書かせた。    

                                   終






お付き合いありがとうございました。
また来月お越しください。


                     MAIL to 大河内はるみ