硫黄島の仏桑華
18      平成13年9月  


インターネットが起こした四つ目の奇跡

―「The Miracle Sword 市丸利之助の奇跡の刀」 続報



 この原稿を書いていますのは、平成13年8月15日、終戦記念日のまひるです。降る蝉時雨の中で、9月1日に更新する「女将ご挨拶」の準備でキーボードに向かっているところです。

 手前味噌になりますが、御許し下さい。実は今日の朝日新聞西部本社版の社会面のトップに大きく載せていただいていることがあります。そのことを、今回は書かせていただきます。

 洋々閣のホームページを開設してから毎月このページを更新していますが、インターネットの威力をこんなに感じたのは初めてでした。8月号に「市丸晴子さんのおだやかな日々」を書き、彼女の父、故市丸利之助海軍中将のことに触れましたが、英語版の「GREETING of AUGUST」には、「THE MIRACLE  SWORD」(奇跡の刀―平和への祈りを込めて)というタイトルで、市丸中将の軍刀のことを書いておりました。そのページから発展したことが、この新聞の記事になりました。
 
 まず元となった「奇跡の刀」を説明も交えて書きなおします。

 太平洋戦争末期、激戦地となった硫黄島の海軍の司令官であった市丸利之助中将は唐津出身で、その長女、晴子さんと私は親しくさせていただいております。市丸中将は玉砕を前にして、当時のルーズベルト大統領に当てて一文を遺されました。そのことは東大名誉教授平川祐弘先生著の『米国大統領への手紙』(1996年新潮社)に詳しく語られています。
 その市丸中将の軍刀が「The Miracle Sword 奇跡の刀」なのです。この軍刀はもともと「藤原忠廣」の銘のある日本刀で、中将が海軍刀に仕立てて佩刀していたのですが、この「忠廣」に三度奇跡が訪れました。

 一度目は、昭和17年、南方で市丸司令官は機上で被弾しますが、弾は刀の先を砕いて司令官は無事だったのです。
柏邨(はくそん)という号を持つ歌人でもあった中将の後の歌に

    左手に発止(はっし)と打ちこむ敵弾に我が佩刀の切先砕く

というのがあります。刀は研ぎ直されて一層鍾愛されます。この切っ先が折れて研ぎなおした、という特徴が、柄の銘の「忠廣」と共に、後の二つの奇跡をもたらします。

 二つ目は、中将が硫黄島で戦死したあと20年目に起こります。
アメリカで「イオウジマ」といえばいまだに大変なインパクトを持つらしいのですが、そのイオウジマのD−デイの20周年にあたる1965年にリチャード・ニューカムというジャーナリストが日米の硫黄島生還者に広く取材した「IWO JIMA」という本を出版します。 その中に、元市丸中将の部下で負傷して捕虜になり生き残った人が戦後市丸未亡人を訪ね、市丸未亡人が夫の刀とその銘「TADAHIRO」について語るくだりがあるのです。
 その記述を読んで、自分の所持する日本の軍刀がそれではないかと思った人がいました。その人の名は「ジョン・レーン」で、やはり硫黄島で戦った海兵隊員でした。彼はたまたまニューヨークに行っていた旧日本海軍の軍人さんにこの刀を預け、刀は家族の許に帰りました。

 その刀を、市丸未亡人は唐津城の中の博物館に展示品として寄託していました。
私も覚えていますが、ある時唐津城にまるで忍者のように賊が忍び込み、忽然と刀やその他めぼしい展示品が消えたのです。私の記憶では、昼間のうちに入場券を買って城内に入り、掃除道具置き場に隠れて夜を待ち、ゴミを捨てるダストシュート(山の上から下までけっこうな長さがある!)から脱出したものであろうという発表だったと思います。
 その刀が3年あとにやはり戻ったのです。銘と切っ先の特徴が刀を確認する決め手となりました。これが三つ目の奇跡です。
 刀はサムライの魂であるから、市丸中将の魂が家族のもとに帰ったのだろう、と私は書きました。
 ここまでが、先月号の英語版の女将のページです。

 さて、四つ目の奇跡は、このページから起こりました。
 7月の半ば頃、私はこの話を書いたものの、少しナーバスになりました。イオウジマは、日本でよりもアメリカで、より覚えられていることを知っていたからです。私が戦争賛美でこれを書いたわけではないとはいえ、アメリカ人がこの話をどう受けとるだろうか、と気になりました。

 そこでメールフレンドであるバージニアのドクター・サグにこれを読んでもらって意見を聞く事にしました。ドクター・サグは、35年ほど前に米海軍の大佐として佐世保に3年間住んだことのある人で、洋々閣にも数回お泊まりになったことがあるそうです。私が嫁いでくる前の話です。この方が歯科医で今は奥様と旅行やガーデニングを楽しんでいらっしゃるのですが、たまたまインターネットで「YOYOKAKU]のページを見つけてなつかしいと、メールをくださいました。私がお返事をして、それから大の仲良しになったのです。
ドクター・サグとダイアン夫人

 私の「奇跡の刀」を読んでくださったドクター・サグは、「何も遠慮することはない、感動的な話だ、ぜひアメリカ人に読ませよう、また、この刀を返した元海兵隊員にこのホームページを見せよう、この人を探してみよう」と言い出されて、当時の新聞記事をもとに、ジョン・レーンさんを探し出されたのです。ドクター・サグがロングアイランド大学に出された問い合わせのメールが回送されて、ジョン・レーン教授本人からドクター・サグあてに返事が来たのは、私がこのページを見てくれとドクター・サグに頼んでからたった2週間後の8月始めのことでした。

 レーン教授からの返事によると、教授もイオウジマの作戦に補充兵として投入された海兵隊のプライベート(兵卒)で、弾に2度もあたりながら、また部隊が゙ほぼ全滅の中に、奇跡的に生還した方でした。戦後すぐにニュージャージー州の古道具屋でこの刀を買い、柄に銘があるのに気がついていた、勿論そのときは読めなかったが、上等兵で海兵隊を除隊してからコロンビア大学に入り、卒業後も大学院に残って東アジア研究を続け、その後はフルブライトの学生として日本に2年間滞在、中国や日本の歴史、文化、言語などを研究した、その時に、刀の銘を「ただひろ」と解読したとの事でした。その後ロングアイランド大学で教鞭をとり、1965年に彼もまたリチャード・ニューカムの取材を受けますが、本が出版されてから市丸中将の「TADAHIRO」のことを読んで、自分が買った刀であることに気がつきます。日本の硫黄島協会などに問い合わせて、刀の特徴から市丸中将のものと確認され、刀は返されたのです。 ロングアイランド大学では25年教え、12年前に退官して名誉教授となり、今は引退してオレゴン州で暮らしておられるそうです。

 私は因縁の不可思議に打たれます。
 リチャード・ニューカムは、生き残りのジョン・レーン氏にも、市丸中将の元部下にも会って取材しています。本が出るまでレーン氏が刀のことに気がつかなかったとはいえ、その本「IWO JIMA」の中にすでに市丸利之助とレーン氏との接点があったのですね。
 私の友人ドクター・サグは、「大変感動した。このことに関わったが、円が完結した感じで、深い喜びを覚える。その喜びが私に対する褒美だ。」と言ってくださいました。
 もしジョン・レーン教授でなく他の人がこの刀を買っていたら、おそらく刀は戻らなかったでしょう。イオウジマの最も激しい戦いで日本軍と死力を尽して戦ったアメリカの若い海兵隊員が、何を思って戦後日本文化を研究されたのか、どのような気持ちで刀の手入れを続けていてくださったのか・・・・。刀は錆び一つなく、戻ったのです。

 晴子さんと私は、ジョン・レーン教授にお礼状を書きました。私たちは桜の花の模様の輪島塗りの文箱をお送りしました。中には唐津の浜の桜貝を入れました。そろそろオレゴンに着くころです。博士は喜んでくださるでしょうか。レーン教授がいらっしゃるオレゴンは晴子さんと私にとって大切な場所になりました。晴子さんは、やっとお礼が言えて、長年の胸のつかえがおりたようだ、とおっしゃっています。

前述のように、今朝8月15日、終戦記念日の朝日新聞に『ホームページが結んだ亡父への思い』と題して、この恩人が見つかったことを書いていただいております。晴子さんは今、3年前に硫黄島からアメリカ経由で53年ぶりに帰国した血染めの日章旗の持ち主の遺族探しに心を砕いておられます。この地域に関わりのあることまでは判明し、現在北波多村に保管してある日の丸を、なんとか遺族の手に返したい、と願っておられるのです。もう1歩のところまで来ているのか、それとも振り出しに戻るのか、たくさんの人の善意と深い思いをこの旗は待っています。晴子さんは、戦後がまだ終わっていないらしい日本のこの夏の大変な騒動の中で、黙って祈っておられます。黙って祈り続ける人々を、この社会はいつまで苦しめるのでしょうか。

   たたかひに果てにし人をかへせとぞ
          我はよばむとす大海にむきて

上の歌は、 釋迢空が硫黄島で戦死した息子を詠んだ歌です。

 その大海の太平洋ほどにも大きな円をインターネットが結んでくれました。今日、皆様がその中に入ってくださったことを感謝します。
ありがとうございました。

追記:8月31日です。今日レーン教授からお返事が届きました。日本のことを勉強していたから、刀の大切さがわかった、遺品の持つ意味もわかった、だから、刀が市丸中将のものだと判明したときに、遺族に返すことしか念頭に浮かばなかった、と書いてありました。所々に漢字の混じったやさしい御手紙に接して、晴子さんは、この日に逢うために私は三度の手術を越えて生かされていたのだと思うとおっしゃいました。さあ、このあと、レーン教授の私へのお手紙にある色々な難しい質問、唐津は鍋島藩か、なぜ唐津という名前か、など、に答えなければなりません。がんばります。
どうぞ夏のお疲れがでませんように。またお目にかかりましょう。
女将ご挨拶 8月号 「市丸晴子さんのおだやかな日々」

GREETING of AUGUST "The Miracle Sword" (和訳つき) 


洋々閣 女将
   大河内はるみ


      メール