#204

平成29年3月

早稲田大学大隈講堂オルゴール

「都の西北」を奏でます。
洋々閣フロントに置いています。
このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
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 天野為之 VS 川原茂輔
~ふたりの政治家 @ Karatsu~



 ここに、明治時代に、旧・唐津藩士・渋谷利見がつづった日誌があります。重要な資料です。知人からちょっとお借りしました。
 これを読むと、幕藩体制が崩壊したあと、どうやって唐津の町を守っていくかを旧・藩士たちが夜毎に寄りあって議論を交わしている様子が読み取れます。当時の混乱した世相もよく分かりますが、もと・さむらいたちは、責任感や使命感に燃えて、なんとか町が破綻しないように、策を練っているのです。疲れると、「潮湯」(当時、2軒の西の浜の旅館がお風呂に海水を引いて潮湯をわかしていました)につかるのを楽しみにしていた様子もうかがわれます。士族といえども、家の畑の施肥なども自らやっていますね。
 さて、この日誌の中で私が今回特に注目したいのが次の部分です。
 
 

明治25年 (1892)

2月10日の日誌
午後一時ごろ天野為之候補が徳末(現在の唐津市北波多徳須恵)方面に演説のため護衛壮士数名と出発の途中に船宮の金毘羅様近くで暴漢に襲われて打撃を受けて気絶、他の東京から来ていた附随の角某は頭部へ切り傷を受け、大騒動となった、と記している。
「嗚呼、競争もここに至りて其の弊極まれりと云うべし。記し終わりて三嘆」と、その日は結んでいる。

また、2月16日は、投票箱を集める日で、17日に開票されるが、郡部の百姓たちが投票箱を奪おうと、こんぼうやトビカキ?などの得物を手にして続々と唐津町に入ってきていることを書いている。
17日には東西松浦郡投票所において、川原候補が160票ほど多かったと書いている。


3月14日には公会堂にて川原茂輔の当選祝賀会があり、郡内有志および有権者三百余名で盛会であった由。




 

 上記の事件のいきさつは、天野為之と川原茂輔の衆議院選挙をめぐる争いなのです。当時の唐津は石炭の積み出し地として発展を遂げつつあって、町には意気軒昂の男たちが互いに一歩も引かずにしのぎを削っていたようです。川原と天野は、1892年2月の第2回衆議院選挙で同じ佐賀県2区でぶつかります。天野は現職議員であり再選をねらい、川原は初出馬です。二人の熾烈な争いは支援者同士のはげしいつばぜり合いとなり、ついに流血騒ぎとなり、天野側の随行者が負傷しました。天野は一時身を隠したりして、何日もの間、警察や憲兵が動員されるほど暴徒化した集団が開票前の投票箱の略奪を企てたりしました。結果は川原の当選で、天野は以後、政界を退きました。


当時の佐賀新聞特派員による唐津特報によると、川原811票、天野650票。川原側は、河村藤四郎、長谷川敬一郎、神崎音之助などの有力な中心人物がいて、主に上層の士族、外町地区の消防夫が固め、天野側は中村某、山田某、松下某などであり、下層士族と内町消防夫が集結したとあります。また、この特報では死傷者はなかったという報道ですが、官党(川原側)を「正義党」、民党(天野側)を「破壊党」と記述したりして、かなり一方的な書き方であるので、注意して読むべきでしょう。このあたりは唐津の松浦史談会発行の『末盧国』昭和五十二年3月20日刊、同6月20日刊に掲載の岩松要輔氏寄稿「第二回総選挙」の記事に詳しいのでご参照ください。
 
不利と見て投票箱を奪うために乱闘するなんて今では考えられないことでしょうが、明治という時代はそうだったんでしょうね。男たちが熱かった!
当時選挙権を持てたのは直接国税を年間15円以上払った人だけでしたから、人口の1%くらいだったようです。1票の重みは大変なものだったんでしょうね。

 ではまず、ウィキペディアから天野為之と川原茂輔、ふたりの政治家の経歴をお読みください。

     
天野 為之(あまの ためゆき、1861年2月6日万延元年12月27日) - 1938年昭和13年)3月26日)は、明治大正・昭和期の経済学者ジャーナリスト政治家教育者法学博士衆議院議員東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任した。勲三等瑞宝章受章。 

大学在学中より小野梓らと知り合って政治結社「鴎渡会」に加わり、明治十四年の政変後はそのまま立憲改進党に入党する。1890年国会開設に合わせて行われた第1回衆議院議員総選挙に、故郷佐賀県より、改進党の流れを汲む佐賀郷党会に属して立候補、当選した。国会では予算委員として活動し、1891年に第一から第五の高等中学校女子高等師範学校東京音楽学校を廃止し、予算削減をはかる案が出た際には、これに異議を唱えて撤回させている。1892年第2回衆議院議員総選挙にも前回と同じ選挙区より出馬したが、大規模な選挙干渉に巻き込まれて落選した(遊説中に暴漢に遭遇し、同行者が負傷している)。以後、政界からは身を引くが、改進党や、その後継の進歩党の党報へ寄稿することもあった

日本における経済学研究の黎明期に、ジャーナリズム教育政治などの多方面にわたって活躍し、特にジョン・スチュアート・ミルに代表される古典派経済学の紹介や、経済理論の普及に尽力した。現在も続く『東洋経済新報』、早稲田大学商学部、早稲田実業学校の基礎を築き上げた中心的な人物の一人である。福田徳三は天野を福澤諭吉田口卯吉とともに「明治前期の三大経済学者」に挙げているが、石橋湛山は、「自己の経済学体系をもつ学者を云うなれば、天野為之一人に止めをささなければならない」と更に高く評している
    

川原 茂輔(かわはら もすけ、1859年10月10日安政6年9月15日) - 1929年昭和4年)5月19日)は、日本の実業家政治家衆議院議長、佐賀県会議長。

肥前国西松浦郡大川内村(現:佐賀県伊万里市)出身。草場船山の塾で漢学を学ぶ。佐賀県会議員、佐賀県参事会員、佐賀県会議長、佐賀日日新聞社長などを歴任。

1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に佐賀県第二区で中央交渉部から出馬し初当選。次の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から出馬するも落選。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙の佐賀県郡部区に立憲政友会から出馬し当選し、1928年2月の第16回衆議院議員総選挙まで連続10回、通算で11回の当選を果たした。

所属政党では立憲政友会総務などを務めたが、1924年、立憲政友会の床次竹二郎ら改革派が脱党し結成した政友本党に移り総務を務めた。1927年、政友本党と憲政会との合同に反対し、再び立憲政友会に復帰した。1929年3月に第26代衆議院議長に選出されたが、同年5月に現職で死去した。

 
 
天野為之書
昭和13年1月
為之79歳 これは、死去の2か月前に当たる。
(洋々閣蔵)
   
川原茂輔書
大正12年夏
茂輔64歳
(洋々閣蔵)
 次に、後年の地元ではふたりはどう語られているか、ふたたび『末盧国』昭和52年3月20日刊より、写してみましょう。       
 天野為之
本邦経済学の先駆者早稲田大学学長就任
 天野為之は、安政六年(1859)唐津藩士天野松庵の長男として生まれ、唐津藩英語学校で高橋是清から英語を学んだ後明治八年上京して開成学校に進み、同十五年東京帝国大学文科大学を卒業した。小野梓・高杉早苗等と協力して大隈重信を助け、東京専門学校(後の早稲田大学)の創設に尽したが、その成るに及んで講師となった。同三十二年、法学博士の学位を得、早稲田大学教授、大正四年八月~六年八月まで学長をつとめた。これより先に、早稲田実業学校を創始し、終世精魂を打ち込んだ。また明治三十年以後、東洋経済新報を経営主宰したが、いわゆる正統経済学の元老で、明治初期、自由民建運動勃興期に、我が国に経済学を植え付けた先覚者である。著書に有名な「経済原論」「経済学綱要」がある。昭和十三年三月二十六日東京にて長逝八十歳。墓は多摩墓地にある。
*生年がウィキペディアと違うが、これは被選挙権獲得のために天野が改変したもので、万延元年が正しい。
   川原茂輔
衆議院議長
議員当選11回
 川原茂輔は伊南と号し安政六年九月十五日、川原茂兵衛の長男として大川内村岩谷に生まれた。幼にして郷里の岩谷恵浄について読書習字を学び、明治五年より多久の草場船山に師事、幼少より俊才のほまれ高く、質実剛健。明治十三年より十五年まで大川内村部長心得。同十七年同村学務委員、次いで県会議員に当選引き続き三選、明治二十四年県会議長となった。翌二十五年の衆議院議員に当選、爾後十一回に及んだ。昭和四年衆議院議長となる。一方郷土の発展にも寄与した。昭和四年五月十九日東京三田綱町の自邸で病死。七十一歳。郷土伊万里では、政治家川原茂輔の像を橘公園に建立したが、昭和二十九年五月に開設された城山公園に移された。

 

  いかがでしょうか?面白いでしょう?
『末盧国』の記事の天野の項には政治家としての面がいっさい触れられていないのが不思議といえば不思議です。もしかしたら天野博士にとって側近が負傷し、政界を退くことになった第二回衆議院選は終世心の傷だったのではないでしょうか。
私は、天野博士が落選したのはむしろ天の配剤だったと思います。一議員としてよりも、不出生の経済学者として、また、早稲田大学四聖の一人としてその名は不滅だからです。
洋々閣は、今は伊万里市に入っている旧・大川内村の出身であるため、同村から出た川原茂輔派であったことは間違いありません。「洋々閣」という名の命名者が川原であり、今も玄関に掛けている「洋々閣」の扁額は川原の揮毫によるものです。
 洋々閣玄関の扁額 210cmX75cm
けれども私は嫁にきてから数十年、ただの一度も伊南・川原茂輔という政治家を御存知のかたにお目にかかったことはありません。少々残念ではありますが、伊万里に行けば有名なので、よしとしますか。

 むかし、子供の将来への親バカな期待を「いずれ博士か大臣か」と言ったものでした。
さて、大臣と博士とはどちらがいいものか、まだ幼い孫の頭をなぜながら考えるばばバカのワタクシでございます。
 
 
唐津城の下天野が通った藩校だったところが今は早稲田佐賀中高に変わっている。
早稲田四聖の一人である天野博士は喜んでいるだろうか。

唐津城の下に今日も『都の西北』が流れる。



 今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。

                             洋々閣 女将    大河内はるみ

                               mail to: info@yoyokaku.com