#205 平成29年4月




「牡丹之図」 (部分)
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唐津のお土産話やとりとめもない
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田辺路平 日本画家
1900-1970


      
白牡丹といふといへども紅ほのか 高浜虚子





  ある画家が長いこと心にかかっていました。 今回はそのお話を。

 嫁いできて間もなく納戸に掛軸の古いものが何本も放り込んであるのを見つけて広げてみると、とても美しい絵、しかも唐津の風景なんです。鏡山、虹の松原、浮岳・・・。どこだかわからない山合いの景色もありました。「路平」とはっきり読めるサインです。顔彩の緑がとても魅力的な、上品な絵です。
 主人に尋ねると「ああ、田辺路平。唐津中学校(旧制)の美術教師だった。親父が買ったんだろう」とのこと。
 それから長い間ずっと気にかかっていました。でも、掛緒が切れたり、軸先が片方なかったり、本紙にしみや汚れも多く、そのままでは掛けられずに放置していました。
 
 何十年も過ぎて、去年、代替わりの準備に入り、掛け軸の整理もしました。思い切ってあまりに傷みのひどいもの数十本を処分して、何

 ひれふりの間 「ひれふり山図」(部分)
ひれふり山を後ろに、佐用姫岩を前景に配している
 
 虹の松の間 「虹の松原図」(部分) 
本かは表装をやり直しました。路平の画は唐津の風景ですから大切なものです。表装なおしに出しました。

 3ヶ月後、きれいに仕上がった軸たちを座敷にかけまわして、つくずく眺めて、大変うれしく、胸が熱くなったくらいです。
 それから「虹の松」の間には虹の松原の軸を、「浮岳」には浮岳を、「ひれふり」の間には佐用姫伝説のひれ振り山(鏡山)の軸を、というふうに掛けました。所を得た軸たちは部屋にとてもよく似合い、私は安堵のため息をついたのです。

 その後、各部屋を見て回るたびに、以前にもまして、路平さんをちゃんと知りた
山合いの渓流沿いに桜が咲いている。
厳木の山中だろうか?
 (掛け軸部分)
いという気持ちが強くなりました。 ところが、どこをどう調べていいか分かりません。とりあえず、ネットに何か情報がないか見てみようと思って検索をかけると、一件だけヒットしました。オークションのサイトに”田辺路平作「牡丹之図」”がでてたのです。しかも締切がその日のわずか4時間後。あわてて落札。
 
 その「牡丹之図」の一部分がページトップの写真です。署名から見て、明らかに路平さんです。

 
 虚子の白牡丹の句をつぶやきながら路平さんの白牡丹と対面し、軸に話しかけました。「路平先生、お帰りなさい。新潟県まではるばると旅してこられたのですね。ここは故郷の唐津ですよ。あなたの軸がほかにもいくつもあります。もう安心ですよ。牡丹の時期が来たら座敷にかけましょうね」
 幸い、状態はさほど悪くなく、表装はまだやり直さなくてもいいでしょう。

 「牡丹之図」に背中を押されて、私は調査を開始しました。

 思い付く限りの人に尋ねました。
中途半端ですが、これまでにわかったことを書きましょう。まだわからないことは、もしかして、ここからわかってくるかも知れませんでしょう。何かご存じのかたはどうぞお知らせください。差しさわりのあるかたはお申し出ください。 


*写真の写し方が下手でごめんなさい。照明がうまくできません。実物を見にお出でください。色調がだいぶ違います。



 最初に飛び込んだのが、唐津市呉服町にある松尾印刷さんです。こちらの社長さんの松尾武彦さん(85才)は、旧制唐津中学で主人の一級上。油絵がご趣味で、唐津の「ゴタール会」の会長さん。たしか中学で美術部だったはず、と主人が言ったものですから。
 旧制唐津中学 校舎 (大正時代)

 松尾さんにお聞きしたこと。
「田辺先生は短い間中学で教えられたが、僕の卒業のころはもうおられなかった。岩屋(厳木町)のほうへ移られて民生委員などしておられた。スケッチ旅行には何度か連れて行ってもらった。スケッチが基本だといつも言われた。岡本一平にかわいがられて路平という名をもらったそうだ。僕の油絵? 今も描いとる。だが唐津の景色は描かん。唐津はきれいすぎて油絵にはならん。油絵では、きれいでない物を描く。洋々閣に路平さんの画があるって? そりゃ、大事にせにゃいかんぞ。呉服町のツルヤ菓子店にも路平さんの絵が掛けてある。見に行くなら、ケーキを買わにゃいかんぞ。僕は、いらん。持って来んでよか。甘かとは食わん」

 お子様はおられなかったでしょうかと尋ねたら、表情が陰って、「ケンタロウは死んだろう」とつぶやかれました。
 それ以上はご迷惑になるかと、聞けずに退散しました。

 その足でツルヤ菓子店に行き、ケーキを買って、お訊ねしました。店にかけていたけど改装の折りにはずしてどこかに置いている、とのこと。しまいこんであるものを急に出せなんて言えるはずもなく、こちらも退散。

 そのあと松尾さんにお聞きした情報を物識りの知人に伝えて尋ねました。路平さんをご存じなかったそうですが、すぐに佐賀県立図書館のデータベースから「厳木町史」に田辺路平の記述があると調べ出していただきました。唐津の図書館に走ってコピーしてきました。

その記述が次のものです。

 
厳木町史 上巻 533ページ
○田辺 路平 (勝)
 唐津市桜馬場において明治三十三年一月一六日に出生、旧制県立唐津中学校から東京美術学校に進み、日本画を学び、日本画の大家河合玉堂等に師事、また岡本一平に漫画を学んで画才は中央画壇で注目された。
 唐津市厳木支所に掲げられている「松にシラサギ」の絵や、中島のコミュニティセンター窓口にある「渓流とカワセミ」の画はその画才を物語る。
 家庭の事情で厳木に閑居したが、病に斃れ惜しまれつつ不遇の中に昭和四十五年四月二十六日死去。行年七十歳。
   
厳木支所 「松にシラサギ」 中島コミュニティセンター 「渓流とカワセミ」 



 さっそく厳木方面にアンテナを張るべく、隣町の相知在住の元中学美術教師、佐伯勝己氏に話を持ちこみ、佐伯氏は路平さんをご存じなかったけれども大いに関心を示され、協力をしてくださることになりました。
 佐伯氏が松尾氏にふたたび接触。松尾氏から唐津市神田にお住まいの井本さんというかたが路平さんの親戚だという情報を得ました。
 井本家を私が訪ねたときには御本人はお留守でしたがご主人がおられて、「妻の眞由美が路平さんの妻の姪になる」と教えていただきました。

 これからあとは、眞由美さんのお話を中心に、いろいろな方面に聞きこみをしたものをまとめて書きます。正確な情報ではない可能性もありますが、書いておきます。ここから発展することをねがいながら。敬称を略します。お許しください。


 
 唐津市桜馬場の田辺家跡は更地になっている。
 田辺路平・勝は田辺家の長男ではなく、兄がいて桜馬場の生家は兄が守った。士族
 厳木町本山の旧・田辺家
(現在は他人の所有)
の田辺家が桜馬場に数軒あったようだが、その一つの家柄だったと推測される。大正7年に唐津中学を卒業(第18回)。東京美術学校で学び、岡本一平にも学んで、神戸の名家の娘、ゆき(または、ゆき子)と結婚、健太郎、康郎、路子の3子に恵まれたが、ゆきに先立たれた。空襲も始まり、唐津に帰ってきて西城内に家を借りて、唐津中学(旧制)の美術教師(臨時?)を1,2年やった。その後、昭和27年1月18日に、厳木の酒屋の奥様の紹介で、厳木町本山(舟木谷)の野田サカと結婚。厳木に住むようになる。岩屋駅に近く高台になっている。
 このとき路平52歳、サカ41歳。サカは東松浦郡一と評判をとった腕のいい産婆であった。二人の間に子ができたが、死産だったよし。赤ん坊をたくさん取り上げたサカが自分の子を死産したとは、どんなにかつらかったろうと思う。当時は高齢での初産はまだまだリスクが大きかったろう。
 サカは自転車で走り回って夜中にお産を助け、家計を支えた。長男、次男は新制唐津高校を卒業後東京で生活し、路子はまだ小さかったのでサカが育て、厳木中学校を出てから兄の元に行ったそうだ。健太郎唐津高校第二回卒業(昭和26年)、康郎第五回卒業(昭和29年)。
 右の踏み石のあるところがアトリエ
 
 昭和35年10月のある日
田辺夫婦と野田初太郎一家、左から眞由美、路平、
伸子、初太郎夫人、サカ、範子

 厳木の家は、最初はサカの弟、野田初太郎一家と1階、2階で同居し、のちに野田家、田辺家が隣接して家を建てた。路平はその家の南側に2間幅の広縁を作りアトリエとして絵筆をとった。厳木町の民生委員も長く勤めたようである。日本画が売れる時代ではなかった。

 田辺家をよく支えた野田初太郎はサカの一回り年の離れた弟だが、このころにはすでに3人の娘がいて、長女眞由美が路平夫婦をよく覚えている。また母の覚書を保存していて、このた
 
 路平遺愛の青磁の筆洗い
 
 健太郎の硯底面と彫り込んだ文字
びいろいろなことを証言してくださった。


 路平伯父は小柄なもの静かな方で、酒は飲まないが愛煙家であったよし。面白い人ではないが、かと言って怖い人でもなかった。晩年は肝臓を病んで背中などの痛みに苦しんだそうだ。

 路平の長男は東京に出て長くせずに亡くなったそうで、そのことが路平の心をいつまでも痛ませたらしい。(一説によると大学を出て大企業の造船会社に勤めていたらしい。)
 昭和45年、路平没。田辺家の菩提寺である大乗寺(唐津市)に葬られた。生家の近くである。
 中央画壇に復帰することができなかったのが、町史に「不遇のうちに」と記された理由ではないかと、姪の眞由美は考えている。有名産婆のサカには依頼が引きもきらず、生活には事欠かなかったはずだという。厳木町史の人物史を担当された富岡先生が2015年に亡くなっているので、私の調査は遅きに失した。

 平成9年4月に田辺サカが86歳で亡くなったが、サカの生前の希望により夫とともに葬られ、のちに夫婦の遺骨は二男・康郎が神奈川に移した。

 
 その後、田辺家は人手に渡り、改装、増築されたが、このたび訪ねるときれいに整備されていた。隣接の野田家は数年前野田夫人(眞由美の母)が亡くなったあと、一昨年8月に売却された。その際に野田夫人が預かっていた大量の路平のスケッチブックその他は処分されたという。残念なことである。私がもっと早く思い立っていたらと悔やまれる。

 ただ、路平が筆洗いとして愛用していた青磁の古い焼き物と、長男健太郎の硯箱、竹製の文箱だけが眞由美が捨てきれずに残った。健太郎の硯の底面には片仮名で「タナベケンタラウ」と彫り込みがある。篆刻用の彫刻刀で、父路平が彫ったものであろう。この硯を子の亡きあと死ぬまで座右に置いた路平の心が偲ばれる。
  路平の残した作品としては、「厳木町史」に記述のある2点のほかに洋々閣に掛け軸8点、ツルヤ菓子店に1点、北山の久保田家に数点があるが、きっとまだ唐津に残っていると思う。心当たりのあるかたは確認してみていただきたい。




 久保田家所蔵のバラと鶏
実物はもっと明るい色調
 唐津市新町の正円寺・先住職・龍渓顕雄様(87歳)はなつかしそうに話してくださった。
「父と路平さんは親しい友人で家(桜馬場)も近かったのでよく行き来していた。私もお使いに行かされたものだった。大きい人ではなかったよ。息子が唐津中学で私より1、2級下だったろう。唐津中学の教師は短い間だった。ほかに美術教師がいたので、おそらく臨時だったんじゃないかな。」

 佐賀市富士町の久保田順一先生は現在85歳。唐津市大石町の久保田産婦人科の2代目院長で、今は悠々自適、北山の先祖代々の屋敷で絵を描いて暮らしていらっしゃる。先生の証言によると、昭和21年、唐津中学(旧制)入学式に父の久保田環先生同伴で行ったところ、父の中学同級生の田辺路平氏が長男健太郎の
 路平画 久保田順一氏似顔絵 
入学式に来ていて「オッ!」「ヤア!」と再会。それから親交を深められたのだとか。順一少年が中学に通うために用意された西城内の家は路平氏の当時の家から目と鼻の先。以来、順一少年は、路平先生の監督下に置かれたとのこと。
 順一先生曰く、「親父同士が同級、息子同士が同級なので、仲良くしとった、お前ん所のオヤジさん(主人の父・大河内等)も同級だぞ」、とのこと。
 エッ? うちの舅も? それで路平作の掛け軸を何点も所持していたのだと、腑に落ちたことだった。嫁に来るのが舅の生前に間に合わなかったので、古いことを何も聞けなかったのが残念だ。
 また、久保田家には路平さんが走り描きした家族の似顔絵が何枚もあるそうだが、昭和29年11月の唐津くんちに描いた順一青年(当時23歳)の画をお借りした。

 大石町の福島善三郎氏(84歳)は、主人の同級生だが、記憶がまことに明瞭で中学時代のことを細かに覚えておられる。路平先生のエピソードをお聞きした。
 ある時舞鶴公園(現在ここに唐津城が建っている)にスケッチに行かされ、遊んでばかりいて絵が仕上がらず、夜、色も見えない暗い電灯の下でいいかげんにぼやけたような絵を描いて提出したら、路平先生から最高点の「秀」をいただき、その上中央のコンテストに出すので2、3枚描いて来いといわれて張り切って描いていったら、今度はウンともスンともおっしゃらなかったとのこと。級友が石膏像をスケッチしたあと片付けようとして机にぶつけて割ってしまい、二人して路平先生にあやまりに行ったら、むすっとされたが弁償しろと云われなかったのでホッとしたとの事。また当時中学健児たちは下駄履きで登校したが、校舎内では運動靴のようなズックをひもを抜いて上履きにしていた。路平先生の上履きには「鍋」の絵が小さく描いてあって有名だったよし。前かがみの小柄な姿を覚えているとのこと。

 私の目にもみえるような気がする。鍋の絵のついた上履きをはいた路平先生。いつもタバコを指にはさんでいて。

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 池田学展の看板

 おりしも佐賀県立美術館で3月20まで開催された「池田学展 The Pen」に行ってきました。初めてみる細密画を圧倒されながら、胸を衝かれながら、息をのみながら眺めて来ました。
 
 彗星のように登場して世界の画壇に名を馳せたこの若き画家は、実は田辺路平氏の義弟・野田初太郎氏の孫なのです。初太郎氏の次女範子さんが池田学氏の母です。

 空想癖のある私は空想します。
天国の舟木谷の日当りのいいアトリエで路平氏と初太郎氏が語りあっています。初太郎氏が「義兄さん、孫の学がねえ、」と自慢しているようですよ。池田学氏が生まれたときには路平氏は亡くなっていたので会ってはいませんが、路平さんも一緒に暮らした姪の範子さんの息子が自分の学校(東京美術学校)の後輩(東京芸大)であり、世界的に有名になったことを祝福しているでしょう。「フムフム、それは大したもんだ。」

 4月は田辺路平画伯の亡くなった月。妻サカさんも四月。そして、うちの舅も4月に亡くなっています。
ページトップの写真、白牡丹を供花にして、亡き人々への追悼といたします。
お読みいただきありがとうございました。





 今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                             

洋々閣 女将    大河内はるみ


                             

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