#229
令和元年11月1日

川中島合戦図
このページは女将が毎月更新して
唐津のお土産話やとりとめもない
おしゃべりをさせていただくページです。
他の方の参加も歓迎です。
バックナンバーもごらんください。
(2019年より、寄る年波で、年に数回の更新になりました。
ごめんなさい。
 取材や原稿、写真などを引き受けてくださるかたがあれば、
いつでも更新いたします。お申し出をお待ちします。)

  西条山は霧ふかし。
筑摩の河は浪あらし。
遙にきこゆる物音は、逆捲く水か。つわものか。
昇る朝日に、旗の手の、きらめくひまに、くるくるくる。
車がかりの陣ぞなえ。めぐるあいずの鬨の声、あわせるかいも、あらし吹く、
敵を木の葉とかきみだす、川中島の戦は、かたるも、聞くも、勇ましや


  みなさん、こんにちは。
ごぶさたしました。10月初旬の巨大台風19号では被害にあわれたかたも多いことでございますでしょう。犠牲者のご冥福を祈ります。
また被災された方の生活が一日も早く復旧しますことをお祈りいたします。

例年11月号は唐津くんちのページで、これを待っていてくださるかたが多いらしく、特に、故郷を離れて暮らしているかたが「我が町の曳山自慢」を楽しみにしておられるということなので、なんとか頑張りました。幸い今回も立派な執筆者にめぐまれ、ここにアップいたします。

さて、上の川中島の歌でピンとこられたと思いますが、今回は「上杉謙信の兜」、平野町の曳山自慢です。
(「武田信玄の兜」は前に済んでいます。平成22年11月号。)
書いてくださったのは、平野町正取締役 林武彦さんです。


どうぞごゆっくりお楽しみください。





     唐津くんち
10番曳山「上杉謙信の兜」

                    明治二年(1869)製作。

 

 

 

 今年、令和元年八月、平野町町内にて、ある誕生日会を開催致しました。

曳山「上杉謙信の兜」は8月で150歳の誕生日を迎えたのです。

平野町には他町内ほど、我が町曳山自慢的な話や逸話は少なく、昔は蓮根の様なツノがあり、レンコン曳山と呼ばれていたとか、獅子頭の色が黒っぽい小豆色から金箔に変わったとか、その程度の話しかなく、今回の投稿のお話を頂いた時、どのような話が良いのか、頭を悩ませてしまいました。


  

 冗談が好きだった、今は亡き明治生まれの私の祖父との会話を思い出します。

 

  
平野町は何故、縁もゆかりもない武将「上杉謙信の兜」を作ったのか?幼少期の私の素朴な疑問でした。祖父が話すには、木綿町が9番曳山として「武田信玄の兜」を製作するとの事で、次に続く曳山は

 

「上杉謙信」やろうもん。単純に川中島の戦いの発想で話し合われたようです。曳山の獅子頭の兜については、現存する兜と違い、上杉家資料に存在した兜の絵をモチーフに創作された事が考えられます。

他町の曳山の造形についてもそうですが、私も一度、その上杉謙信の兜の絵を本で拝見した事があります、先人達が、形なき物を創作する発想には大変感心する処です。

 

 

 9番曳山の木綿町が唐津神社に奉納してから5年後、続く曳山として、平野町「上杉謙信の兜」が完成するのですが、時を同じく曳山を製作していた米屋町「酒呑童子と源の頼光の兜」が先に完成していたらしく、製作順が米屋町の方が実は早かったとの話でした。しかし、

「武田信玄」「上杉謙信」が並んだ方が良いだろうと、米屋町の皆さんが、快く製作順を譲ってくれたとの逸話を聞いた覚えがあります。

 

 

 製作時の資料など存在しない為、本当の話なのか、今となっては確かめる事は出来ませんが、真実は別にわからなくても良いのです。 

 

 そんな話を聞いてか、私の中に、特に木綿町、米屋町と前後の曳山には特別な思い、感謝の気持ちが幼少期から芽生えていたのは確かです。 

 

「上杉謙信の兜」「酒呑童子と源の頼光の兜」共に明治二年製作の同じ150周年。 

 

「じいちゃん、本当ね?」 

子供の頃に聞いた曳山の話は興味深く本当に楽しいものでした。

町内の曳山の事。

他の13台の曳山の事。

消滅した紺屋町、黒獅子の事。

学校の勉強などそっちのけで大好きな唐津くんちの話ばかり。


  

幼少期の町内の人も古い町並みも、ずいぶんと変わり記憶も薄れてきました。

曳山の組織も時代と共に、ずいぶんと近代的に変わりました。 

 

 

昔の文化と現代を知る私自身も、ずいぶんと変わったのでしょうね。

 

 

 しかし曳山は原型を留めたまま、これからも継承しなければいけません。

気がつけば後輩に、変わりつつある伝統や、しきたりを伝える立場になりました。 

 

 現代では、ありとあらゆる楽しい娯楽が選べる中、制限ある伝統文化の世界を、興味を持ち、これから曳山行事を引き継いでくれる子供たちにちゃんと伝える事が出来きるのか不安があります。曳山本体よりも、それらに関わる人々の方が大事な事に最近気づいたのです。

 

 

 先日、なにげに近所の子供が話しかけてくれました。 

 

 


「おいちゃん、囃子の練習いつから?」

 

 

                
 

 

 

 

 

 

        

 
昭和3年 唐津神社前

昭和35年
 

祖父 寺村才吉
  

平野町正取締役 林 武彦

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 
 いかがでしたか?親から子へ、そして孫へ。伝統と文化、心意気と礼儀まで伝える曳山は、家族制度を支えている唐津の精神的バックボーンといえると思います。
曳山に係るみなさま、ことしも怪我なく、天気に恵まれて巡行なさいますように、お祈りいたします。
執筆してくださいました平野町正取締林武彦様に心よりお礼を申し上げますとともに、平野町の御一同様のご健勝をお祈りいたします。

 私は子供のころから不器用で、お手玉を上手に繰れずに、2、3度で取り落しいつも落伍していましたが、なんとか仲間に入れてもらいたさに、お手玉歌を歌う役をやってました。「サイジョウザンはキリフカシ、・・・」
意味はわからず、一生懸命繰り返し歌ってましたよ。あとになって、川中島の戦いの歌だと知り、ウエスギケンシンとタケダシンゲンが戦ったのだと教わりました。この歌がなんでお手玉の歌になって主に女の子に歌われたのか、どなたかおわかりでしょうか?

 今回の台風で千曲川や多摩川など大きく氾濫したニュースを見ながらこのページ作っておりますが、胸のいたいことでございます。
「サイジョウザンは・・・」というお手玉歌は、今、祈りの歌になりました。どうぞ、千曲川の深い霧が早く晴れますように。

 ところで、謙信さん、なんと150歳でいらっしゃるそうで、おめでとうございます。いついつまでも御元気でエンヤエンヤと進んでください。
 では皆様、お読み頂きありがとうございました。また数か月のお休みを頂くかと思います。時々思い出して覗いて見てください。

 

今月もこのページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                              洋々閣 女将 大河内はるみ

   
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