#234
令和4年1月1日
謹賀新年


宮沢賢治の姿を写した
デクノボウこけし

このページは女将が毎月更新して唐津のお土産話やとりとめもないおしゃべりをさせていただくページです。他の方の参加も歓迎です。バックナンバーもごらんください。
(2019年より、寄る年波で、年に数回の更新になりました。 取材や原稿、写真などを引き受けてくださるかたがあれば、いつでも更新いたします。お申し出をお待ちします。)
 明けましておめでとうございます。
コロナに翻弄されたつらい2021年が過ぎましたが、みなさまご無事でいらっしゃいましょうね。私どももおかげさまでなんとか生き延びております。
今年はどうか、明るい年になって貰いたいものです。
安否をお知らせする意味で、久しぶりにこのページを更新します。無駄話ですので、お読みとばしください。

昨年11月に12日間のフルムーン旅行をいたしました。まず飛行機で北海道に飛び、あと、だんだんに下ってきました。目的は「弔問」です。コロナ禍のこの2年ほどの期間に、数人の大切な人が逝かれました。お葬式にも参列できなかった方たちへお参りをしたいと、感染が下火になったタイミングで出かけました。間で少し観光もできました。帰る頃にオミクロンが報道されましたので、良い時期に行ったことになります。

仲むつまじく旅行でよかったね、ですって?いえいえ、とんでもない、性格の不一致により仲むつかしく行ってきました。語り合いながら歩くのでなく、せっかちな一人は小走りにさっさと行ってしまってしょっちゅう見失う。なんでもじっくり見なくちゃいけない一人は説明板があれば全部読まなきゃいけません。そのうち携帯のベルがなって、どこそこにおるぞ、さっさと来いと告げられて再会するわけです。

では、2人の合計が164歳の、あぶなっかしい旅におつきあいください。御当地ソングを口ずさみながらご覧ください。




 
 最初の目的地は札幌の近くの恵庭市です。ここに住む主人の弟を訪ねました。
恵庭市は牧場の多い、静かな町でした。義妹の墓地の近くで羊さんたちをたくさん見ました。なんとやさしい表情でしょう。こころが癒されていきます。


 
 義弟の車で小樽に連れて行ってもらいました。憧れの小樽。「小樽のひとよ」を口ずさむ私は、古いひとです。ステッキを頼りに、運河にそって歩きました。ゆっくりゆっくり。先に行った人がサッサと来いと手を振りますが、そんなの見えないふり。♪オタルは寒かろ、冷ーたかろー♪歌い終わるまで待つのじゃ。北一ガラスでお土産を買おうとしたら、旅の初めから重いもの買って、誰が持つのか、と怒る。ものともせずにやっぱり買ってしまった私です。


 
 札幌に行ったら、時計台は見なくちゃ。♪とけいだいのかねがなる♪ ラーメンも食べなくちゃ。義弟が、何食べたいかと聞くので、味噌ラーメンと答えたら、何を言うかと怒られて、豪華なカニをごちそうになりました。でもラーメンもちゃんと、あとで食べました。ここで一句。「味噌ラーメンうまかっちゃんよりうまかっちゃん」 ちなみに「・・・っちゃん」という方言の語尾は、形容詞や動詞につけて、「・・・なんだよね」という感じで使うことばです。「東京に行くのよね」だったら、「東京に行くっちゃん」と言って、言外に「だからお餞別ちょうだい」なんて匂わせるんです。

 
 北海道大学の中を散策してクラーク博士の胸像をみましたが、有名な腕を伸ばした銅像の方も見なくちゃいかんと義弟が言うので、雨の降る中を羊が丘まで行きました。BOYS BE AMBITIOUS. 少年だけでなく老婆も大志を抱きます。「100歳まで生きるのだ」


 
 札幌を発つ日は、雨風の強い日でした。白老に行き、あたらしい国立の民族共生をテーマにした施設「ウポポイ」を見ました。小学校の学芸会でアイヌのピリカメノコ(美しい娘)を演じた私は、ぜひアイヌ人形を買いたかったけど、見つけられませんでした。木彫りの熊はあちこちで見ましたけどね。強風で傘は吹き飛ばされ、ぐっしょり濡れましたが、♪イヨマンテー♪とバリトンで勇壮に歌いながら頑張りました。この歌は名曲ですね。ラジオで子供のころに覚えた歌です。
伊藤久男の動画で「イヨマンテの夜」を聴いてください。

 
 白老のあとは登別です。もちろん、♪いい湯だな、ハハハン・・・ここは北国、登別の湯♪を歌いました。宿も温泉もよかったです。この後は義弟と別れて老老介護の汽車の旅。間違えずに乗れるかしらん。着いたら札幌に戻っていたりして・・・・、困る~。


 
 ♪はーるばる来たぜハーコダテエエエ♪。
函館で五稜郭に行きたいと思っていました。幕末の、時代に翻弄された志士たちのあとを訪ねたかったのです。土方歳三もここで戦死しました。私は歩けないのでタワーの上から見ましたが、88歳の健脚は一人でさっさと回っていました。


 
 函館戦争の供養塔です。唐津藩の若き公子・小笠原胖之助(おがさわらはんのすけ)は仲間とともに脱藩して、彰義隊、白虎隊を経て新撰組に加わり、土方のもとで五稜郭で戦いました。17歳の戦死でした。胖之助の死んだ場所は五稜郭から出て、すこし離れた村ですが、そこまで訪ねる時間がなく、この塔にお参りしました。彼の墓は唐津の近松寺にあります。


 
 函館からは新幹線の旅です。すこぶる快適。フルムーンチケットはグリーン車に乗れるんですね、うれしい。まず、花巻で1泊。私は70年前からの宮澤賢治の読者です。暗記するほど読みました。一生に一度でいいから花巻に行きたいという願いがかないました。ガイドさんを頼んであったので、とても詳しく、行きたいところは全部行っていただきました。写真は「イギリス海岸」です。


 
 今は北上川の水量が増えて、川底の石が見えません。ドーバー海峡と同じ石だと地質学者の賢治が農学校の生徒たちに教えて「イギリス海岸」と名付けたところです。年に数回見えるそうです。


 
 賢治は日蓮宗の熱心な信者でした。浄土真宗だった実家と疎遠になりましたが、賢治の若き死後、両親は日蓮宗に改宗して、賢治一家の墓は日蓮宗の寺・身照寺にあります。お花がたくさん供えられていました。お水をちょっとかけてお参りしました。お水が置いてあるのはありがたいですね。花巻では小さなB&Bに泊まりました。静かにくつろげました。


 
 翌日は平泉に一泊です。ここでは「民泊飛来住」の山田ご夫妻に一客一亭のこの上ないおもてなしを受けました。すばらしい思い出になりました。感謝します。前沢牛もおいしかったです。


 
 山田さんに一関市の厳美渓というところに案内していただいて、逝く秋の風情を楽しみました。


 
 中尊寺にお参りし、芭蕉になったつもりで金色堂への道をたどりました。ここで疑問がわく。
「五月雨の降り残してや光堂」の句ですが、金色堂には室町時代から覆堂という建物がかぶせてあって、現在は昭和38年築の覆堂がかかっています。芭蕉が来た時には前の覆堂があったはずで、五月雨が降り残す・・・?私が写した金色堂の写真はよく出来ていませんでしたので、道だけ見てください。


 
 中尊寺鎮守の白山神社の能舞台(重要文化財)のうつくしいたたずまいです。


 
 翌日は仙台に寄りました。青葉城址に登って伊達政宗さんにご挨拶。観光客が多くて、びっくりしました。結婚写真を撮る新婚さんにも何組かあいました。お幸せにね!土井晩翠さんの胸像はマスクをかけていましたが、政宗さんには、無理よねえ。仙台市を見下ろしながら「青葉城恋歌」を歌おうとしたら、あれ、どうだっけ、ド忘れしちゃった。


 
 電車で松島に行き、大震災の跡を偲びました。こんなに有名なところなのに、ローカル線の小さい駅でした。遊覧船を勧誘していましたが、混みそうなのでやめました。海にむかって般若心経を唱えました。


 
 仙台のあとは東京に入り2泊。ホテル近くの浜離宮を散歩しました。


 
 浜離宮から隅田川を行き来する観光船が出ていることを知り、なんとか午後の約束に間に合いそうなので乗ることにして、浅草までたくさんの有名な橋をくぐって1時間ほどさかのぼりました。♪春のうららの隅田川♪に出てくる桜の長堤は今はどこへ行ったか、両岸にはビルが立ち並んでいます。浅草では大急ぎで安くてまずいソバを掻きこんでタクシーで銀座の約束場所に走りました。すべりこみセーフ。


 
 智(とも)美術館で中里隆先生の最初からの代表作品を展示した『陶の旅人』を見ました。すばらしい美術館でした。展示内容も充実していて、来たかいがありました。うちで所有しているものも何点かあり、場所と照明がいいので、ずいぶん輝いて見えました。写真の人物は中里隆先生ではなく、誰だったっけ?


 
 東京で弔問と、何人かにあう用事をすませて、小田原の弔問にむかいました。その後静岡へむかう車中から美しい富士を見ました。ここ数十年、上京するときは飛行機ばかりでしたので、この富士の姿は久し振りです。私が何の歌を歌ったか、当ててください。♪ま白き富士の嶺♪だと思いますか?残念でした。「ノーエ節」でした。♪富士の白雪ゃノーエ♪ 民謡も好きであります。
♪富士のサイサイ♪

 
 子供のころに習った登呂遺跡は、今では吉野ヶ里が有名になって何倍も大きいので、寂しそうに見えました。誰もいない。小学校の子供たちのつくった花壇だけが明るく咲いていました。


 
 同じ登呂公園の一隅に白井晟一氏の設計による「芹沢銈介美術館」があり、建物をじっくり見て、来年のカレンダーなど買いこみました。1984年に亡くなって40年近く経つのに、いまだに年々のカレンダーが愛好されているのはすごいことですね。


 
 日本平に行こうと、静岡駅前からバスに乗りました。40分もかかった。それなのに、曇って、富士山はぼんやりしか見えなかった。そこからケーブルカーに乗って、久能山東照宮に行きました。途中までしか行かないので、あとは石段を歩くしかないのです。百段くらいは登ったけど、死にそうになったのでギブアップして、最後の30段は下から拝みました。ケーブルカーを使わないで初めから歩く人は1159段を登るのだそうです。家康殿のお墓には私は行けませんでした。だれかさんはさっさと行ったようです。


 
 翌朝静岡を発つ前に駿府城を見ました。家康殿にはここでお目通りがかないました。
そのあと、最後の目的地広島へ。


 
 何十年かぶりに訪れた原爆ドーム。
まじめに♪ああ許すまじ原爆を♪を心の中で歌って、向かい側に最近建ったおりづるタワーに登りました。


 
 タワーは広島マツダが建設したもので、1階の物産館と最上階展望台、12階おりづる広場が利用できます。最上階から原爆ドームを見下ろし、12階で自分で折り鶴を折って、窓から飛ばすことができます。といっても、二重窓になっていて、内側の窓と外側の窓の間の空間をツルは舞い降りながら、うまくいけば、途中階の窓枠にひっかからずに地上まで到達します。私の鶴は下まで行きました。願いを込めて。


 
最後の宿泊地は友人・上野氏の宮浜温泉・石亭です。いつ来てもすばらしいお宿です。上野氏ともゆっくりお話しができました。広島案内もしていただいたあと、私達は新幹線に乗り込み、帰路につきました。長い旅でしたが、なんとか無事に済みました。行き別れにもならず、ころびもせずに。よかったよかった。コロナを拾ってこずにホントによかった。
私は気疲れからか、そのあと1週間時差ボケでした。なんとか立ち直ってこのページを書いたというわけです。長い物を読んでいただきありがとうございました。

 
 

おつきあいいただきありがとうございました。またいつ更新できるか分かりませんが、ゆるりとまいろうと思っております。皆様もどうぞオミクロンなどはねのけてくださいませね。また会う日までさようなら。今年がいい年でありますように。



このページを訪れてくださってありがとうございました。またお会いしましょう。
                              洋々閣 女将 大河内はるみ

   
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