井上あき子作

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#1 御挨拶

#24 平成14年 3月

    


小町夢幻 ―夢と知りせば― 井上あき子頌


井上あき子作 卒塔婆小町
(昭和49年内閣総理大臣賞)

穂すすきは長けてほほけて輝かぬ道のべといふわが果てどころ
                                      
藤井常世 「画布」より




 “博多人形より美しい博多人形師”と、ある作家にたたえられた大御所、井上あき子さんは、私のインタビューに答えて人生を振り返ってお話下さったあとに、小さな声でおっしゃったのです。
「恋をするひまもなかった・・・」
 私は心の中だけでお返事しました。「でも、あき子先生に恋をし、先生のお人形に恋をした人は、たくさんあるはずですよ・・・」

   

 2月の初め、馥郁と香る梅の花に誘われた私は、福岡市の今宿にある「井上博多人形工房」を訪れました。あき子先生は、あいかわらずお美しかった・・・。 「もう81歳ですよ」と笑っておっしゃるけど、とても信じられないくらいです。右のお写真は、正真正銘、平成14年2月のあき子先生です。
博多人形といえば、福岡県のもの、どうして洋々閣のホームページに?といぶかられるむきもございましょうが、あき子先生は、唐津出身なのです。今月はお雛様の月。どうぞ美しき人形師のご紹介をお楽しみください。



 
 博多人形作家井上あき子は唐津の隣、相知町で大正10年に生まれましたが、小さい時に井上家の養女として唐津に引き取られ、昭和13年唐津高女を出ました。小学校から高女時代まで、「カッパ」として県下に有名な水泳選手だったそうです。
長ニ郎の作品

 養父の引き合わせで高名な博多人形作家小島与一の弟子である永野長二郎と出会い、弟子入りするつもりがプロポーズを受け、昭和14年に結婚。あまたの縁談を振り切って″貧乏な″人形師のもとに飛びこんだのはひとえに″人形にとりつからたから″。 けれども夫は最初はあき子が制作することを喜ばず、夜中にこっそり粘土にさわっていた。

 昭和18年に長ニ郎が出征。あき子は留守を守って夫の型に彩色をして制作を続けた。夫は生還するが体をこわし闘病生活となる。看病と子育ての合間をぬってあき子の作家としての自立をめざした苦闘が始まった。昭和32年の西日本女性美術展入選を皮切りに、次々に受賞する。「これで一人前の人形師になった。食っていけるだろう。安心した」と言って夫は昭和38年に他界。


 昭和39年に名工小島与一に入門。夫の得意とした美人ものを受け継ぐが、夫の型ではなく、あき子自身の作風を確立することを模索して能の「百萬」に挑戦、福岡県知事賞を受賞。師の小島与一に「能もんば、やってんやい」(能ものの博多人形をやってみなさい)と、いわば通行手形をもらって約束事の多い能ものに取り組むことになる。演能のたびに楽屋にまでおじゃまして勉強をする年月だった。


 以来、福岡県内の受賞は数えきれぬほど。国レベルでの作品の受賞は、昭和49年「卒塔婆小町」で女流では初めての内閣総理大臣賞。昭和57年「六浦」で通産大臣賞。平成3年「薪能」で再び内閣総理大臣賞。平成4年「春韻」で通産大臣賞。平成9年「草子洗小町」で三度めの内閣総理大臣賞。
 作家としては、平成5年工芸士として通産大臣賞。平成6年勲六等瑞宝賞。平成8年日本伝統工芸士功労通産大臣賞。平成9年福岡県無形文化財保持者。平成10年国指定卓越技能保持者。

草子洗小町(平成9年総理大臣賞)


 燦然と輝くこの履歴は、なみたいていの努力ではなしとげられなかったでしょう。封建的ともいえる伝統工芸の世界であき子を支えたものは、あき子が親友とよぶ「小野小町」でした。
 どうして小町が?と訊ねた私に、遠くを見るまなざしで「共通するものが・・・」といわれたとき、私の頭をかすめたのは、「草子洗小町」でした。

 和歌のほまれの高い小野小町を陥れようと、大友黒主は小町の歌が万葉集に載っている古歌の盗作だと非難しますが、証拠の万葉集を洗ったところ黒主が書き入れていた文字があとかたもなく消えて小町は面目を保った、という能の演目です。

 もし草子洗小町があき子を支えたとすると、美しい笑顔の蔭でどれだけの修羅を、あき子は戦い抜いてきたのでしょうか。
 その生きかたは多くの人に感動を与え、テレビドラマ化されたり、数々の雑誌に取り上げられました。なかでも戦地に赴く特攻隊員に夫が出征のときに形見としてのこしていった人形を花嫁として贈ったエピソードはつとに有名です。
あき子先生に贈られた
特攻隊員と花嫁人形の絵




 来し方のお話しのあとに、「恋もしないで・・・」とつぶやかれたあき子先生の詠嘆も、まるで小町の歌のよう・・・。
   
 「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」
 「思ひつつぬればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを」
 「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物はたのみそめてき」
   

 でも、あき子先生のこれからの道のりは、卒塔婆小町のような凋落ではありえません。息子の栄和(ひでかず)はすでに押しも押されもせぬ博多人形作家、孫の和彦は将来を嘱望される若きアーティスト。娘の祥子も蔭で母を支え続けています。

 「おばあ様には、100歳までは仕事をしてもらいますよ」と、アトリエの反対側で試作品を彫っていた孫の和彦さんが断言すると、あき子先生は「あら、冗談じゃない」と笑われて、その笑顔は匂いたつように美しく、私はこう思ったのです。
 このかたは、辛苦を昇華し、夢幻の中で生きていらっしゃる・・。



 お別れするとき、あき子先生は梅林のむこうから見えなくなるまで手を振ってくださいました。
                  
  
                                  *井上博多人形工房
                                                福岡市西区今宿上ノ原748−1
                                                    TEL:092−806−7155

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洋々閣 女将
     大河内はるみ


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