#3 平成12年6月  
   唐津市の東南に隣接する相知(おうち)町の見帰りの滝は紫陽花の名所です。 
   私も毎年六月にはここを訪れて滝を仰ぎ、紫陽花を眺めます。

          山が抱く五色沼けふの青磁色ひたひた殖ゆるあぢさゐのいろ

 このお歌は歌人の藤井常世(ふじいとこよ)さんの『繭の歳月』という歌集にあるものですが、もちろん、相知の見帰りの滝の歌ではありません。 でも私は勝手にここの歌に決めていて、滝の廻りに年毎に殖える紫陽花の応援歌として、おまじないにつぶやくのです。「ひたひた殖ゆる......」と。

 今ではこの辺りの名物になって、時期には何十万人もの人を集める見帰りの滝の紫陽花ですが、最初は滝のそばの旅館の女将さんが一人でコツコツと殖やされたものだったのだそうです。 今は故人となられた方の遺志を受け継ぎ、町中の人が年間を通じて勤労奉仕されて、このようにすばらしい名所となりました。
 同じく地方旅館の女将である私に、はたして町のために何ができるのでしょうか。 見帰りの滝に行って紫陽花におおいつくされた斜面を仰ぎ見るたびに、何かが私に問い掛けます。

 見帰りは、見顧り。 過ぎ越しを回顧します。 または見省り。手をこまねいて何もしない自分を反省。

 さて、今月の「女将ご挨拶」のページには、すてきなゲストをお迎えしました。 佐賀女子短大教授の横尾文子(よこおあやこ)さんです。横尾先生は、もう随分前から熱心な唐津のチアリーダーを自認する方です。 エレガントな容姿とやさしい声音に似ず、厳しい視点でハッキリと唐津のなまぬるさを指摘し、かつ声を限りに叱咤激励してくださいます。 唐津でも「歴史に磨きをかけよう」というタイトルで何度も講演がありました。横尾先生は、気鋭の国文学者であり、北原白秋の研究者として知られていらっしゃいます。
 昨秋は「五足の靴」の記念碑が唐津駅前に建立された記念講演で、「五足の靴」と唐津について話されました。

 「五足の靴」とは、『明星』を機関誌とする新詩社のメンバーの明治40年の九州旅行記のことで、与謝野寛、平野万里、吉井勇、太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋の五人が佐賀、唐津、佐世保、平戸、長崎、天草、三角、熊本、阿蘇へと、各地の同好諸氏と懇談しながらの旅であり、旅先から五人がリレー式に執筆した紀行文は『東京二六新聞』に29回連載されました。 この旅行が、その後の白秋に大きな影響を与えたのでした。

 白秋は昭和5年にも唐津に来ていて、二つの創作民謡を作っています。 「唐津小唄」と、「新曲松浦潟」です。 横尾先生が平成8年ごろ「佐賀新聞」に連載された「日本の心 白秋まんだら」の中からこの二曲に関わるものを別ページに掲載していますので、ぜひごらんください。 横尾先生と同じ心で私もまた、この唐津にとって無形の大きな財産である二つの歌を昔のように蘇らせたいと願うものです。

 横尾先生はまた『新・肥前風土記』という本も書いておられます(平成2年 NHKブックス)。 写真家の大塚清吾氏と共著で、吉野ヶ里で有名な高島忠平氏の監修です。 この中で横尾先生は、肥前という古い土地の地霊のように、私たちに語りかけておられます。 第六章の「文明のクロスロード」には、唐津地方のことが詳しく出てきます。 

 玄界灘の沿岸であるこの地方にザバリザバリと大陸の方から押し寄せる波を見ながら、横尾先生はこう書いておられます。
〈この波こそ、日本列島にとって新しい歴史を開く文明の波であった。 稲や織物、青銅や鉄、焼き物や建築とその技術、法律や制度、思想などなど。 今日の日本文化を、外側から形成し、伝播してきた波である。 ある時は逆波となって、倭寇が、秀吉が、大陸へ侵攻したこともある。 玄界灘に面した東松浦地方は、文化の行き交う、まさに文明のクロスロードとしての基地であった。〉

 ふるさとに住み続ける人間として、私たちはこの語り部の言葉を聞き逃してはいけないと思います。

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横尾文子先生の他の著書: 風曜日 白秋うたごよみ 1992年 樹花舎
                ふくおか人物誌3 北原白秋 1996年 西日本新聞社
                ほか、共著と研究論文が多数あります。
洋々閣 女将
     大河内はるみ

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