#33
 平成14年12月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶





硫黄島

57年目の郵便配達
硫黄島よりアメリカへ、そして、日本へ―



 2002年の終わりは、平和な日々でありうるのでしょうか、それとも、再び戦争へのプロローグなのでしょうか。私は戦争映画、たとえばスピルバーグものなどを見るとき、以前は主演俳優や主だった脇役ばかり目で追っていました。けれども今はちがいます。私が息を止めて見つめるのは、一瞬しか画面に出ない路傍の死体とか、銃撃で倒れる敵兵なのです。私は初めて気がついたのです。これらの一人一人の兵士が、その人とその家族の人生の中では、かけがえのない主人公だったのだと。一人一人の戦死者に大きなドラマがあり、その人を失った家族にも、失ったことに由来する過酷なドラマがあったのです。気付かせてくれたのは、一通の手紙でした。

 今月は少々重いテーマですが、ささやかな記録と発信がどんな大きな波紋を起こすのかを身をもって体験しましたので、書かせていただきます。



アーノルド・ハワードの場合

 アメリカ合衆国テキサス州在住の、アーノルド・ハワードは、40代半ば。企業の案内や商品の説明などの文章を書いているライターですが、一つの夢があります。それは、数年前に死亡した父のコンピューターに残っ
アーノルド・ハワード
ていた未完の太平洋戦記を完成させ出版することです。このファイルを見つけたとき、アーノルドは驚きました。やっぱり物書きであった父が昔海兵隊員であったことは知っていましたが、父は生前戦争のことを息子に一度も語らなかったのです。サイパンの攻撃に従軍した父の記録を読んで、アーノルドは戦慄を禁じ得ませんでした。
 なぜ父が戦後50年も経ってこれを書こうとしたのか。父の平和への思いを読み取ったアーノルドは、元海兵隊員のヴェテラン(退役軍人)たちを探して聞き取り調査を開始しました。

 その中でアーノルドは一つのキーワードに出合います。「IWOJIMA」(硫黄島)です。米海兵隊の歴史の中で最も激戦地であった硫黄島は、擂鉢山の上に星条旗を掲げる6人の海兵隊員の写真で世界中に有名であり、今も語り継がれ、繰り返し出版され、ベストセラーにもなるテーマです。IWOJIMAの持つインパクトに気付いたアーノルドは、硫黄島生還者たちの会に接触を持ち、数人のヴェテランと友人関係になっていきます。はじめは多くを語らなかった老人たちが、いつしかアーノルドの熱意に口を開き始め、その聞き取りの中でアーノルドは驚くべきことをたびたび聞くことになりました。それは、老兵達の、硫黄島守備の日本軍に対する「敬意」ともいうべきものです。

 死力を尽くして戦った日米両国の生還者や遺族が、硫黄島の砂の上で今も「名誉の再会」という催しをやっていることをご存じでしょうか。その会合に参加した元軍人たちが深いまなざしで日本兵にたいする敬意を表明するのを聞いて、アーノルドは日本側の証言を得たいと思い始めました。日本にツテのない彼は、あてもなくインターネットでIWOJIMAを検索し、何千とあるIWOJIMAというキーワードを含むページから、日本側の資料を絞りこんでいきます。
 そこでヒットしたのが、私が2000年8月に英語版女将ご挨拶に書いた「The Miracle Sword」(その日本語訳のページ)と、その続編「The Miracle Sword Part U」でした。


 アーノルド・ハワードが私に初めてメールを送ってきたのは、今年(2002年)5月です。硫黄島のページをほめてもらっていい気になった私は、先でどういうことに巻きこまれるかも知らずに、気軽に返事を書いたのでした。

 次のメールで、彼はIWOJIMAを取材したい理由と、生還者、遺族に連絡をつけたい、協力してくれ、とくに私が書いていた市丸中将の遺族、晴子さんに話しを聞きたい、と言ってきました。私は気が重くて一週間ほど返事をせずにほったらかしました。けれども、気になって胸がつかえたようです。それで晴子さんに相談しました。晴子さんは即座に「大切なことです。大病で死なずに生かされた命です。小さなことでも硫黄島遺族のためにやれることがあればいたします。負けた側の気持を聞いていただけるなんて、珍しいことです」と、答えられました。「はるみさん、あなたがよろしければ、通訳を引きうけてください」と。

 アーノルドは喜んで、メールによるインタビューを送ってきました。私が翻訳して晴子さんと、晴子さん経由で硫黄島協会の生還者たちへ取次ぎ、回答がまた翻訳されてアーノルドに返って行きました。
3ヶ月くらい、私は翻訳で大忙しでした。

 次にアーノルドは書いてきました。知り合いのヴェテランたちの中に硫黄島で回収した日本兵の遺品を持っている人がいる。「返してもいいがどうせ遺族はみつからないだろう。自分が生きている間は大切にしてあげようと思う」と言っている、と。 「見つかるかどうかわからないけど、努力だけはしてみましょう」と私は約束しました。

 それから晴子さんと私とアーノルドと3人の小さな『硫黄島遺品返還プロジェクト』がスタートしました。2002年8月の初めでした。晴子さんにはこの春、硫黄島からの戦利品としてアメリカに渡っていた血染めの日章旗返還の遺族探しに協力し、3年かかって見つかったという実績がありますから、心強いことでした。



退役軍人ジム・ホワイトの場合
ジム・ホワイト(当時) ジム・ホワイト(現在)


 1945年、米軍は何ヶ月にも及ぶ硫黄島への空爆、艦砲射撃のあと、2月半ばから海兵隊による上陸作戦を開始します。 現在アリゾナに住むジム・ホワイトは当時インテリジェンス(諜報活動)担当の若い初年兵でした。大きな夜襲が行われた翌日、暗号文などの書類を捜索するために上陸し、日本兵の遺体や営舎を探ります。いろいろな手紙や、記録、写真などを収集し、いったん調査の上、全く無害な個人的なものは、恐らく殆どが捨てられたでしょう。その中でジムはいくつかのものをアメリカに持ちかえり、以後57年間、「大切に」保管します。80歳を過ぎた今、ジムはアーノルドに聞き取りを受けるようになって話し合ううち、遺品を返してもよいと思うようになりました。




陸軍曹長・田之上優(たのうえまさる)氏(享年25歳)の場合

 2002年8月12日、一通の手紙のコピーがアーノルドから送られてきました。ジム・ホワイトが保存していたものの一つで、封筒も残っていました。宛先は当時の東京の臨時陸軍病院気付、「田之上輝彦」。差出人は陸軍の部隊名と「田之上優」。内容は兄上、で始まり、入院中の輝彦に見舞いをいい、家族を案じ、故郷に帰ったら母親に孝行したいというものでした。涙ながらに読んだ私は、何とかしてこの人の遺族を見つけたいと思いました。
遺品の手紙


 この手紙を見た市丸晴子さんは指摘します。これを身につけて戦死した人は、宛名の「輝彦」さんでなく、差し出し人の「優」さんであろう、と。戦時中には書くことが禁じられていた戦地を示唆するようなヒントがいくつかあるのです。それらの表現から、この手紙は1945年2月2日に硫黄島で書かれ、もはや出せずに遺書代りに身につけて戦死したものであろうと晴子さんは推測しました。
 
 早速、硫黄島協会を通じ厚生省に「田之上優」の名で戦没者名簿をあたってもらい、確かに硫黄島戦死者の中にその名があり、原籍地は鹿児島県大口町(現大口市)篠原であり、遺族名は「田之上茂」であることがわかりました。厚生省から鹿児島県に依頼して戸籍を追跡することになりましたが、2週間たっても進展がありませんでした。

 私は気があせりました。一日でも早いほうがいい、57年という年月は遺族をかなり老いさせているはず。この手紙の母上がもし生きておられるならば、100歳過ぎの高齢でしょうし、宛名の輝彦さんも高齢のはず。
 急ごう。私はじぶんなりに調査を開始しました。

 電話番号案内で「田之上輝彦」という人が大口市にいないかと訊ねたら、大口にはいないけれども隣の出水市にいる、とのこと。電話したら、30代の若いかたで人違い。気をとりなおしてもう一度NTTに大口市の篠原という地名で「田之上」はないか調べて、順々にかけていって、5軒目に田之上カズオという老人にあたりました。カズオ老人
永松照雄さん
は、もう90を越していらっしゃるようですが、「輝彦も優も知っている。二人とも死んだ。なんで探しとるか」とおっしゃいました。硫黄島の手紙のことを話すと老人はびっくりされましたが、一生懸命に考えて、「輝彦の息子が大口におるぞ」と思い出してくださいました。

田之上家の墓に報告、テレビ局も取材に同行
 輝彦さんの息子照雄さんは、養子に行って姓が変り永松となっていました。大口市役所OB。69歳。元気で「ふみきり屋」という酒店を営業しながら、市のグラウンドゴルフ協会の世話をなさっています。照雄さんは私の話を最初に聞いたとき半信半疑だったそうですが、幸い唐津の近くに同級生が嫁に行っているので聞き合わせたら、洋々閣の女将なら心配いらん、お世話になんなさいと言われたとか。それからは信用していただいて、親戚のようなお近づきになりました。

 アメリカから手紙の現物が到着したのは9月17日でした。わら半紙に鉛筆書きの手紙、裏紙を利用して作った封筒を手にして、私は身が震えました。よくぞ残ったと思いました。
妹ハル子さん
 
 
 9月19日、57年目の郵便配達夫、晴子さんと私は、車を仕立てて片道4時間の大口市まで行きました。優さんのお墓と輝彦さんの納骨堂に参らせていただき、お料理屋さんで薩摩料理をおごちそうになりました。永松夫人・美子さんもいいかたでしたし、優さんの妹・ハル子さん、優さんの兄茂さん(故人)の子・茂樹さんにも会えました。手紙を書いた人、受けとる筈だった人のそれぞれの人生のドラマは’事実は小説より奇なり’で、会ったこともない田之上優さんと、兄と呼んで頼った叔父の田之上輝彦さんの57年前の人生がまるで自分
田之上輝彦さん
の兄か父のように思えました。

 村相撲の横綱だった優さんを慕って嫁になりたがった娘さんがいたのに、優さんは生きて帰れぬ身を思って受け入れなかったことを、母親がいつも「やっぱりあの時むりにでも祝言させておけばよかった」と悔やんでいたと、ハル子さんが涙ながらに言った時、私は自分がその娘だったような気がして胸が痛んだのでした。そのかたは今どこかで80歳近くなられて鹿児島県内に大きく報道された優さんの手紙の帰還のことを読まれたでしょうか。 優さんの実家が水害にあったために、優さんの写真や遺品は一切残っていないそうです。 

 優さんの叔父、輝彦さんは在所の誇りとされた若き憲兵大尉でした。幼い時に父をなくした茂、優、ハル子兄妹の兄となって一緒に暮らしました。輝彦さんの子照雄さんは早くに実母と別れ、親戚の永松家に養子に行き、幸せに成人します。「早く養子に行った自分は実父の輝彦に孝行していないので、今度の硫黄島の手紙で良い供養ができてうれしい」と感激の面持ちでした。泊まっていけと勧められる手を振り切って帰路に着いた私達は、疲れも感じないほど感動していました。輝く笑顔で私達を歓待してくださった「よかニセドン」の永松氏が今度は唐津に遊びに来ると約束してくださいました。
 


海軍士官・小林吉雄氏(享年35歳)の場合

 2002年9月17日、アメリカから田之上優さんの手紙に同封されて6枚の小さな写真が届きました。この6枚は一人の兵の遺体から回収されたもので、ジム・ホワイトはこれをバラバラにせずに、また変色しないように、カンに密封して保存していたのです。

 6枚とは、母親、妻と妹、妹とその息子、1歳くらいの男の子の写真が2枚、弟らしき青年。写真の裏に書きこみがあり、それぞれの名前が母親(サン)、妻(ミサ)、妹(キヌとヨシエ)、長男(吉雄長男鋼ニと記述)、弟(二男鉄蔵と記述)がわかります。また弟の写真の裏に、小林と読めそうな、多少ずれた印が無造作におしてあったのです。さらには、母親の写真に、「AKITA NOSHIRO KONNNO」という写真館の刻印があり、また妻と妹、妹とその子の2枚には「能代 佐藤」という刻印がかすかに読み取れました。
 私はその日のうちに1枚のホームページを作成しました。上の6枚の写真とその裏面をスキャンして引き伸ばし、
読売新聞秋田版9月19日
情報提供を呼びかけるページです。
 
 翌18日に市丸晴子さんと私は唐津市政記者クラブに行きました。こちらの新聞社から秋田県の支局に頼んでもらって、そのページのことを報道してもらい、たくさんの秋田県人に写真を見てもらおうと考えたのです。同時に唐津市役所を通じて能代市役所に、「硫黄島戦死者で、小林吉雄という人が能代市、または近隣にいなかったか」を問い合わせました。もちろん推測による名前でした。

 ところが、推測が当たっていたのです。能代市役所では遺族会に問い合わせて、該当者がいると回答してきました。わずか2時間後のことでした。ただ、該当者がいても、本当にその写真の持ち主だった人の遺族かどうかは、写真を見せて確認をする必要があります。ここで立ち上げただけで公開する必要のなくなった私の硫黄島遺品のホームページが一回だけ働きます。能代市役所にアドレスを伝え、そのページをプリントアウトして小林家に届けられる事になりました。
毎日新聞秋田版10月16日写真はミサさん


 能代市役所の担当者二人が写真のコピーを持って小林家を訪問したのは、同じ9月18日の夕刻です。小林家ではそのときお葬式の支度がはじまっていました。その日の朝、写真の弟さんが79歳で亡くなったのです。

 弟鉄蔵(戸籍では鉄三)さんは、兄吉雄さんの戦死後、3歳の鋼ニさんと吉雄さんの戦死の直前に生まれた娘の二人を抱えた兄嫁ミサさんと結婚、合計4人の子の父となり、戦後を鋳物工場で働きとおして粉塵から肺を病み、長い闘病生活の末、その日の朝、最期を迎えられたのでした。写真の妻ミサさんは84歳で健在、鋼ニさんは60歳、そして、写真の妹たちもかけつけて一家が揃った所へ硫黄島の写真の話しが伝えられたのでした。

 鋼ニさんは、のちに私への手紙に、「もたらされた写真のコピーに一同言葉を失いました。養父の死んだ日に実父の遺品が戻るとは、偶然と言へるのかどうか・・・」と書いています。私には戦死した吉雄さんが、自分に代わって小林家と母、妻、子供たちを守ってくれた弟に礼を言って天国に導くために出てこられたように思えてなりません。鋼ニさんは父が戦場で肌身につけていた写真を大切にしたいと書いています。

 私達二人のおばあさん郵便配達夫にとって秋田県はあまりにも遠く、6枚の写真は、鉄蔵さんの初七日が済んだころ、晴子さんの心尽くしの鶉石(硫黄島にだけある小さなまだらの石)を添えて本当の郵便で届けました。

 この6枚の写真のケースは、奇跡的とも言えるスピードで解決しました。6枚の写真のそれぞれが、吉雄さんを特定するための手がかりを叫んだように思えます。年間2〜300ほどの戦争の遺品が厚生省の援護課にもたらされるそうですが、これほど早く遺族が見つかるケースは稀有といえるでしょう。
 

各紙に報道される

 こうして、私達のプロジェクトは一段落しました。大口の田之上優さんも、能代の小林吉雄さんも、名の知れた将校だったわけではありません。戦争映画ならばエキストラがやる役だったかも知れません。けれども一人一人の戦死者に大きな人生の意味があり、輝いて生きていたのです。そのことに思い当たった時、私の中で冒頭に書きましたように何かが変りました。平和への祈りは切なるものになりました。

 私は市丸中将の「奇跡の刀」が、再び太平洋を越えて二つの遺品を呼び戻したことを疑いません。アーノルドはまた別の遺品を返すように、別の人を説得しているようです。怖いような、待ち遠しいような、不思議な気持で私はおります。

 この話を聞いて下さったことに感謝いたします。
 2003年が人類にとって終末の始まりになりませんように、ご一緒に祈りましょう。
 
 最後に、アーノルド・ハワードからのお願いを読んでいただけると幸いです。

アーノルドからのお願い
Arnold Howard is writing a book on the battle of Iwo Jima. He would like to correspond with surviving Japanese soldiers who fought on Iwo Jima, and with Japanese families who lost loved ones in the battle. He would be interested in knowing more about the Japanese Iwo Jima veterans, their personalities, read letters they sent home, and see their photos. It is in the interest of preserving history. His email address is
here.

アーノルド・ハワードは硫黄島戦記を執筆中です。硫黄島で戦い生還され今もご健在の日本兵のかた、愛する人を硫黄島戦で失われた家族のかたに連絡をとりたいと願っています。硫黄島の日本兵がどういう人々であったかを知り、彼等が戦地から家族に送った手紙、写真など拝見したいのです。目的は、歴史を保存するためにほかなりません。ご協力をお願いします。メールは上記のhereの所へ。

*アーノルド宛のメールは英語でお願いします。日本語の場合は、大河内が取り次ぎますので、ご遠慮なく下記のメールというところからどうぞ。

今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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