頌 春

#34
 平成15年1月

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶



明治中期の満島


お蔭様で110
Mitsushima On My Mind




明けましておめでとうございます。
ご家族ご一同様おそろいで、お健やかに新年をお迎えのことと思います。
本年は、洋々閣が明治26年にこの満島の地に根をおろしましてから110年になります。
お客様の変らぬご贔屓のお蔭様と、心から感謝申し上げます。

今月は、満島の古今を勉強したいと思います。どうぞ、お付き合いください。

水島の戦い
天正十四年(1586)岸岳城主波多三河守と、平戸松浦鎮信が合戦。原因は唐津の浦人が平戸の田平にて網を引いたことで捕らえられ刑罰を受けたのに対し、三河守が怒り、遊興に唐津を訪れた平戸藩士二十四名を討ったことによる。松浦方は二千騎を率いて押し寄せたが三河守は水島でむかえうち、松浦側が敗退した。

市兵衛が薩摩の使者を斬りしとふ松浦潟の砂の白さよ
(滝口康彦先生よりいただいたお歌  寛永三馬術の一人、筑紫市兵衛のこと)

 
 満島・・・みつしま、と読みます。水島と書かれているものも散見します。みずしまと今も発音されることがあります。古くは源氏物語の「玉鬘」に浮島として出てきます。いかにも、海と川とにはさまれた美しい村のイメージです。今は地名が東唐津と変わってしまって、少し残念・・・。

満島側から見た現在の満島山
 ここは松浦川が押し流した山土と、玄界灘の波に寄せられた海砂の堆積した細長い砂丘で、中世は漁師のそま屋がポツポツと建っていたくらいではなかったでしょうか。その頃、河口は、今のニの門堀のあたりで、今の唐津城のある舞鶴公園と呼ばれる小高い丘は、満島山(まんとうざん)と呼ばれて、潮が引くと満島側につながった土地でした。

 「唐入り」に失敗した豊臣秀吉が大坂に引き上げるとき、この辺り一帯、波多三河守の領地は没収されて秀吉の臣、寺沢志摩守に与えられました。志摩守は、慶長七年(1602)から六年間の築城の際、思い切った大工
松浦川河口の工事
事を行いました。

 松浦川はもともと久里村のあたりから半田川と合流し現・ニの門のあたりから西の浜にそそいでいたものを、満島山の東側を掘り切って人工の河口とし、少し上流の河原橋の所で波多川と合流させた松浦川を現・千人塚の位置で大きく西流させて、新しい河口につないだのです。千人塚は非常な難工事で、治水の為に千人の人柱を立てる予定が、時の安養寺和尚の知恵で、千人の無縁佛の慰霊の卒塔婆を河岸にうちこみ、工事を乗り切って、その為に千人塚と呼ばれるようになったところです。
 
 河口となった満島村は、唐津藩随一の良港となり、物資の集積所として、大いに栄えることになりました。豪商も何人も生まれ、唐津城から渡しで満島村に渡って参勤交代も出発しましたし、そのお宿も出来、唐津藩中最も人と物の交流した地域だったと思われます。特に石炭の売買で山崎家、山下家、阿賀家、小島家など、巨大な
江戸時代 満島略図
財をなしました。

 また、志摩守が防風、防砂の為に植林した「ニ里の松原」(現・虹の松原)も満島村にあり、5キロの深緑の帯の中に様々な歴史が眠っています。

 明治になってからも、石炭の積み出しは続き、たくさんの船が高島沖に停泊し、そこへ荷を運ぶ小さな船が何百艘もいて、三菱、三井も事務所を構え、商人宿がひしめき、政治家、豪商たちの来訪も多く、私どもにさえ、墨客の滞在をしのばせるものが少しは残っています。
 明治29年の松浦橋と満島


 私どもの初代、曾祖父の大河内政太郎が長男・正夫を伴って北波多村から満島村の現在地へ移ったのが明治26年。満島が唐津の港としての最盛期にあったころです。その年の秋には、「大国丸沈没事件」という大変な台風災害が起こっていますが、その時の新聞記事などを見ますと、満島がいかに栄えた港であったかわかります。

 けれども、西唐津の港が開かれ、鉄道(現・唐津線)が敷かれて、石炭は船より効率のよい汽車で運搬されるようになり、満島港の繁栄は明治30年代に終わりをつげました。
 村としては、福岡への玄関口としての地の利もあって、馬鉄を引いたり、北九州鉄道(現・筑肥線)の駅を建設して唐津の玄関としての役割は続きます。松浦橋の役割も大きく、商業の繁栄もまだ続いていました。

大河内正夫
 大正13年に、満島村は唐津町と合併しますが、その時の中心となった村会議員の一人は、祖父の大河内正夫でした。合併やその他いくつかの大きな村の行政にかかわったようです。残念ながら大正14年に47歳で亡くなっています。東松浦郡会議員にも選ばれたこの祖父が長生きをしていたら、また違った満島村であったかも知れないと思います。ともかく、明治、大正という時代は、満島村にとって激動の時代だったようです。

 昭和初期には北九州鉄道の駅として、到来した「遊覧の時代」では、北部九州随一の観光地として栄えました。上海租界からの外国人の避暑客もたくさん来訪し、昭和十年をピークとして、松原の中に外国人専用のホテルが7〜8軒も並ぶという盛況でした。

 人が動くときには商いも栄えます。私どもの店も大きく構えていたようです。唐津町の座を借りて華やかな踊りなどを披露したようなことも聞いていますし、きっと不夜城であったのでしょう。
 二代目の祖父・正夫の葬式の写真が残っていますが、村中の人が出てくださったような行列です。一人娘・ミツヨに呼子の永井家から婿・等が来て、これが三代目。そして、その三男・明彦が当代ということになります。

 満島共同墓地の中にある大河内家の墓に参るとき、私はいつも不思議な感慨に打たれます。私は嫁に来た身で、明治時代からの来し方に責任は持てないのですが、なんだかお墓の中からご先祖様が私に「頼んだぞ」と言ってるみたいに思えるのです。肩に乗ってこられるのは、どなたかしら、といぶかりながら、ドッコイショ、と墓前から立ち上がって帰ってくる私です。
航空写真 昭和29年ごろ 
写真提供:江頭義輝様


 満島には、掘り起こしを待っている歴史的な素材がたくさんあります。今は安養寺の和尚様ががんばっていらっしゃるけれど、永く語り継ぐには、どうしたらいいのでしょう。どなたか、お知恵をお貸しください。

 見る影もなく過疎化し、高齢化した満島がふたたび繁栄する日を願って、細々とではありますが灯を消さずに110年を迎えさせていただいた洋々閣から、皆様へ感謝を込めて、新年の御挨拶といたします。



↓吉田初三郎画 唐津鳥瞰図より満島の部分 昭和初期
この画では北は下側になります。現在の松浦橋はこの図の橋より東(上流)です。
東唐津駅も今は移転しました。
茶色の線が鉄道です。左へ行けば博多、上へカーブして行けば伊万里です。



満島八景

松浦橋の時雨
安養寺の晩鐘
作礼岳の晴雪

虹松原の春暁
領巾振の薫風
浮岳山の秋月
高島沖の漁火
満島港の帰帆



満島渡頭

水續三方満島浮
城丘萬緑映江流
埠頭陸続待津客
渾入畫中孤棹舟

      前川観水 作


現在の東唐津地区


                                       参考資料:善 達司 「満島沿革史」 (『末盧國』各巻より)
                                              『東松浦郡史』
                                              『満島村史

                                              『唐津城 寺沢御代記』
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ありがとうございました。
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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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