#37
 平成15年4月

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唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶




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みるかし
―肥前風土記の「賀周の里」 見借―



 「賀周(かす)の里」の地名由来を『(肥前)風土記』は、「霞、四(よ)もを含(こ)めて物の色見えざりき。因(よ)りて霞の里といひき。今、賀周(かす)の里といふは、訛(よこなま)れるなり」としている。現在の西唐津駅をニキロ余り北上すると佐志に着く。
佐志川の河口

 ここに河口を持った佐志川は、流域に小平野を形成している。佐志川沿いに上流へとのぼっていくと、平野の奥まったところに見借(みるかし)がある。『風土記』によれば「海松橿媛(みるかしひめ)」という土蜘蛛が居た「賀周の里」にあたる。この土地では、このように奥まったところを「うばんふっくら」と呼びならわしているが、「うばの懐」の意味である。中央政府から見ればこの地の女頭領は手に余る土蜘蛛かもしれないが、土地の人か
見借庚申社
らすれば海松橿媛は祖母の懐のように慕わしい存在ではなかったろうか。見借の集落を見下ろすような丘に、見借庚申神社(猿田彦神社)がある。江戸中期の創建というが、『風土記』の時代の海松橿媛と関わりを持つ古くからの社かもしれない。

     『新・肥前風土記』 NHKブックス 横尾文子著より
 
 佐志川に沿ったり離れたりする細道を上流へと辿ると、野には菜の花、タンポポ、イヌフグリ、アザミ、ホトケノザ、カラスノエンドウなど、山にはアオモジの花があふれんばかり・・・・・。
 その昔霞の里とよばれた山ふところは、春もピーク。めったに歩かない私が花に誘われて逍遥を試みました。みなさまもご一緒にどうぞ。重い私を押してください。頼みましたよ。

 この川沿いは古墳がいくつかあったところです。下流から、中の瀬古墳、中山古墳、経塚古墳、下戸古墳、北惣原古墳(4基)、南惣原古墳(2基)、女山(じょんやま)古墳(2基)と、だんだん上がって行ったところが見借で、その上流の馬場野(ばんばの)が水源ですが、馬場野は縄文の遺跡、見借は弥生土器の散布地であり、上流からだんだんに水田耕作が降りていったようすが伺われるところです。古墳も上から下に新しくなっているそうで、ただ壊されてなくなった古墳も多いそうです。昭和3年頃に見借と佐志の境界近くの丸山(別名女山=じょんやま)で小型の竪穴古墳が発見され、土地の人はこれを「みるかし媛」の墓に比定していると、郷土史家・河児哲司先生(故人)は書いておられます。

     佐志川中流       二本の小さな川が合流して佐志川に 馬場野より見借の集落を見下ろす



 唐津出身の考古学者で、昔このあたりの古墳の発掘に参加された松岡史先生(筑紫野市在住)は次のように話してくださいました。

 佐志川流域のこの土地は小さな集落のように見えても実は当時の「まつら郡」の郡衙のあった所(現・唐津市千々賀)とは峠を越えてつながり、また、西へ行けば相賀や呼子の友といった当時の「駅」へ続いている交通の要衝に当たる。佐志川の水で水田を耕作し、また河口から朝鮮半島へ船を出して交易を行ったらしく、この流域にだけ集中する古墳群(3世紀〜5世紀)から伽耶式土器が出土している。女山古墳は、2基の竪穴古墳が昭和初期に発見されたもので、倣製鏡が副葬されていたと記録にあるが、現在その鏡は所在不明となっている。古代には神の託宣を伝え、水源を守り、水田耕作やまつりごとをつかさどった巫女が媛であり、その墳墓は当時の媛が大きな力を持っていたことを示していて、それが8世紀の風土記に海松橿媛となって語られたものであろう。近年また佐志川の東側にもいくつかの古墳が発見されているし、ますますこの土地が古代史上重要なところになるのだが、残念ながらいくつかの古墳は消滅した。幸い女山は一部開墾されたものの、頂上部分は残っているようだ。松浦佐用姫と並んでもう一人、この地方で古代史上重要な女性、海松橿媛の墓に比定される古墳が保存されることを願いたい。可能な限り古代の遺跡を後世に引き継ぐことが私達の責務であろう。

女山 女山頂上には石が置かれてまつられている。 西側にもう1基。




 東大教授で詩人の藤井貞和先生を一度、見借へご案内したことがあります。15年ほども前になりますか。そのあとで頂いたお手紙に次の詩がありました。私の宝物ですが、皆様にもお見せしましょう。(藤井貞和先生はこの春、現代詩の大きな賞である「歴程賞」と「高見順賞」とをダブル受賞されました。)



見借

                     藤井貞和

たにあいのふところ深く、
            みるかしさんは焼かれる。
緑のうわぐすり、
       風の向き、
けむりの色、
    包む土、
取り出される窯のなかから、
             みるかしさんの姿体。


みるかしさんは「荒ぶる神」だと、
                みんなが言う。
でもそれはこきやがれ嘘、
            思いっきり優しい声と、
おだやかな顔と、
       しずかな心とで、
二千年ののち、
      いまに至る。


恋しくて、
   森が激しい揺れをするそれが女神ののちだ。
二千年ののち、
      森をいでよ 山を越えよ みるかしさん。


見借の村を過ぎて、
        海に向かうま日差しの道。
草、木の茂りは続き、
          前人を見ず、
ただ海人(あまびと)の沈み、
              うにを漁(と)るのみ。


ふと、見借と言って見る、
            過ぎて来た村の名。
み 見る
る 見るか
か みるかし
し 沈む
会いがたい人がそこにいる、
              かのように思う。


はぐれる「想い」のして、
           耳につく子供の声は、
「罹火」!「罹火」!さらに「罹火」!
                  顔に刻む深い沈線、
古代からの罹火をくぐりぬける、
               荒ぶる心ののちの女神さん。 




見借庚申社の裏で見つけたお猿さんたち

 

 纏向日代宮(まきむくひしろのみや)にしろしめす天皇(景行天皇)が国巡りましませし時に、陪臣の大屋田子(おおやたこ)を遣わして誅滅したもうた土蜘蛛の女頭領、海松橿媛は、きっと、思いっきり優しい声の、しずかな心のおばあさまだったのでしょうね。お墓はほんとうに女山古墳なのかどうかわかりませんが、この土地に霧が深くたちこめて不思議な暖かさの夜を、隆太窯の帰りに経験したことがあります。荒ぶる心ののちに穏やかなお顔になられた海松橿媛さんを、わたくしもまた恋しくて、「森をいでよ、山を越えよ」と呼んでみたかったのです。
 詩の中の窯のイメージは、中里隆さんの隆太窯ですが、「うばんふつくら」と呼ばれる谷あいで、今日も薪を割る音がしています。

 一度、見借を歩いてごらんになりませんか。

隆太窯敷地内の佐志川の上流
源流は歩いて20分ほど登った所
隆太窯の展示場 川の横に窯がある
今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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