ハマユウ 
田島神社 2004.9.5


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唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
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#1 御挨拶



#55
平成16年10月



 
田島詣で
―呼子町加部島 田島神社―




古事記 上巻より 二神の誓約(うけひ)生み

 ここに天照大御神詔(の)りたまはく、「然らば、汝(いまし)の心の清く明(あか)きは、いかにして知らむ」とのりたまひき。ここに速須佐之男命(はやすさのをのみこと)答へて白(まを)さく、「各(おのおの)うけひて子生(う)まむ」とまをしき。かれ、ここに各天の安河(あめのやすのかわ)を中に置きてうけふ時に、天照大御神先(ま)づ建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)ける 十拳剣(とつかつるぎ)を乞ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打ち折りて、ぬなとももゆらに天(あめ)の真名井(まなゐ)に振り滌(すす)きて、さがみにかみて、吹き棄(う)つる気吹(いぶき)のさ霧に成りし神の御名(みな)は、多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、亦の御名は奥津島比売命(おきつしまひめのみこと) と謂ふ。次に市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、亦の御名は狭依毘売命(さよりびめのみこと)と謂ふ。次に多岐都比売命(たきつひめのみこと)。三柱。



     
 あれは、いつでしたでしょうね、もう40年にもなりましょうか。呼子の湾の入り口に屏風のように浮かんで玄界灘の荒波をふせいでいる加部島(かべしま)の田島神社に、当時國學院大學の教授だった藤井貞文博士が、たし
故・藤井貞文博士
か、森田とおっしゃる東大教授をご案内なさったときに、お供をして渡ったことがありました。藤井博士は、中学生のころはお父様が佐賀県では最高格の国幣中社・田島神社に宮司として赴任しておられたため、旧制唐津中学を大正13年に卒業なさっていますので、いわばここはホームグラウンドなのです。まだ学生だった私が、いくら藤井博士が父の親友だったとはいえ、お二人のえらい先生に、なんでついていったものか、記憶がはっきりしません。当時はまだ今の呼子大橋がかかるずっと前ですから、船で行ったのですが、船が怖い私がよくぞ行ったと思います。よほど、ついて行きたかったのでしょう。前後のことははっきりしませんが、いくつかの細部を妙にくっきりと思い出します。

 その一つは、田島神社の本殿の裏山に道なき道を踏み分けて上っていって、かなり頂上の近くの、木立がまばらになったあたりに、大小の岩がほぼ円形に並んでいるところがあって、その岩組みをさしてお二人で話し合っておられたことです。古代の遺跡だとおっしゃいました。太陽信仰の跡で、「イワサカ」だと、おっしゃったと思います。私は
太閤祈念石 2メートル以上の大石
今では道が整備されている
ドキドキしながらお話を聞いていました。今思っても、松本清張の『火の路』みたいで、ぜひもう一度見たいのですが、どうももう失われているのではないかと思います。そのときこの島にドルメン遺跡もあったように話しておられたように記憶しますが、島でなく、対岸の大友の支石墓のことだったのか、あいまいになっています。どなたかご存知でしたら、教えてください。
 
 もう一つは、今「太閤祈念石」として祀られている大石の割れ目の下にかわらけのかけらが埋もれているのを、木の枝で掘り返して熱心に見ておられたことです。この石は、太閤秀吉の伝説が生まれるよりもずっと前から、古代人の巨石信仰の対象だったのでしょう。この島には小さな古墳もいくつかあります。私はこの古代の島が、今ではその記憶を失ってしまったことに哀惜の情を禁じえません。ただ、古代の名残をこここそは色濃く残していると感じるのが、田島神社です。祀られている3人の女神たちは、アマテラスオオミカミがスサノヲノミコトと高天原の安の河原で誓約をするときに生んだ娘たちで、まことに古い神話の系譜なのですね。3女神については、宗像神社を考察した益田勝実氏の『秘儀の島』には、”渡中(わたなか)の神である沖ノ島は、崇高な厳島(いちきしま)(市寸島比売・市杵島姫)とそれを取り巻く激浪の奔暴(たぎち)(多岐都比売・湍津姫)、それをさらに包み込んでいる雲霧(たぎり)(多紀理毘売・田心たごり姫)、という遠望のイメージ全体が神格化されていた”とあるそうです。

 詩人の高橋睦郎先生は1995年に『姉の島 宗像神話による家族史の試み』という詩集を出しておられます。3女神をご自分の姉たちなぞらえて自身の根源を問うというモチーフです。初出の『すばる』連載はその2、3年前だったでしょうか。そのころ、時々私に『姉の島』の構想を語ってくださったりしていましたから、呼子の田島神社が宗像大社と同じ3女神を祀ってあると申し上げると大変興味を示されて、ある年の夏、7月29、30日の「田島神社夏越祭」にご案内することになりました。
 前日雨がひどく降ってあやぶまれたのですが当日は快晴の真夏日となりました。時間少し前に田島神社境内に

 夏越祭
到着すると、たくさんの人がしゃがんだり、タバコをすったりしてたむろしておられました。「まあ、たくさんの見物客ですね」と私はいいましたが、時間になるとみなさんぞろぞろどこかへ行かれて、誰もいなくなってしまいました。アレアレと思っていると、白装束に着替えた氏子さんたちがご神幸を始めました。見物人は高橋先生と私達夫婦の3名でした。もったいない、もったいない、こんなにいいご神事なのに、と私は先触れに舞いながら進む獅子たちを見ながら思ったものでした。聞けば、神様がお旅所へお渡りの時間はこんなだけど、お戻りの時間には小学校のこどもたちも参加するし、見物人もたくさん来るとのこと、ああ、よかったと思いました。櫃か長持のような大きな箱をかついで通られるときには、箱の底から昨日の雨が漏って入り込んでいたらしい水がポタポタと落ちてきて、田島の姫神さまたちのお召し物がぬれたのではなかろうかと心が痛みました。でもきっと、最近はおやしろの修復が進んでいるし、伝統行事の保存の大切さが人々にも認識されてきているので、雨漏りもなくなってるはずと信じます。

 また、その前後に、藤井貞文博士のご長男で国文学者、詩人の藤井貞和教授を田島神社にご案内したことがありました。当時の平野宮司様(現宮司の父上)はご高齢ながら矍鑠としておられて、1000年以上前にこの島に起こったとされる不思議な現象(松の木に不思議な光が降りてきた・・・とか)を、ご自分が見ていたように話され、おまけに長生きの仕方なども教えてくださって、時のたつのを忘れた記憶があります。いつの日か、貞和教授のお姉さまで歌人の藤井常世さまをぜひ、ぜひ田島神社にご案内して美しい歌を詠んでいただきたいというのが、私の願いです。きっと姫神さまたちもお待ちになっているでしょう。

藤井貞文全歌集  不識書院2003.12.15
国史学者藤井貞文は釈迢空折口信夫の門下であった。
師を敬仰し作歌をつづけて生前歌集を持たなかった。
迢空門の正しき歌まさに4593首ここに纏める。

 (藤井貞和)
 
(本の帯より)
 常世さまはこのたび生前には歌集を編まれなかったお父様の全歌集を上梓なさいました。お父様は国史学者でいらっしゃいましたが、釈迢空の門下としてひたすらに歌を詠み続けてこられたのです。
 田島神社の詳しい説明は、田島神社様のホームページでご覧頂くとして、今回の「女将御挨拶」は、藤井貞文博士のお歌によせて、平成16年長月の私の「田島詣で」の記録といたします。ひとつだけお断りしておきたいことは、お歌にはこの島の社が寂れているように歌われていますが、それはその歌が詠まれた昭和30年代の印象であって、今はすっかり修復されていますので、どうぞご承知おきくださいませ。

 
 
                    *お歌の句読点やスペースは原作の表記にしたがっています。



田島神社全景 

父のみこと仕へし時世もはるかにて、岩間の道のいよゝけはしき

神の世をかなしきまでに思ふ日や 島をめぐれる荒海の音


ムサシアブミがあるはずだが花期がちがう。
藤棚の下で見つけた小さなカラスビシャク。

神々に離りし人の世堪へがたし。荒草 島山 我が立処かも


神の杜の北側の磯

島の入江 岩肌荒れし波の跡、香に立つ潮の今日はしづけし

神の杜 低くなだれし北の方 いまだ荒き岩肌を見せつ

波の面かゞやく時や。岩肌の荒きに見ゆる田島神の社


源頼光が肥前守として下向したときに寄進した佐賀県最古の肥前鳥居

荒れし庭歩み来つれば高き石段頼光鳥居をふり仰ぎけり


田島神社本殿

島の神 もの宣はず。冬荒れのまゝなる木立に 薄日さしたり


佐與姫神社
大伴狭手彦が任那へ船出したのを見送って松浦佐用姫は泣いて石になったという伝説
その望夫石を祀ってある


大倭日高見の国をさかりつゝ 大伴朝臣の思ひかなしも


小川島

荒海の外なる潮騒 音たちて小川島を遠のきて見ゆ


太閤秀吉ゆかりの梅と桜

田島の神鎮まりいます岩床に 梅の若木の生ふるが淋し


加部島の高みから呼子を見る

渡り来し神の島山 荒れあれて、額つきにつゝ一人去りゆく



呼子大橋 平成元年開通
下の赤い道は弁天島への遊歩道
 私のこのたびの田島詣ではまだ治らない脚をひきずってやっとの思いで行ったので、加部島のもっと色々な観光地をご紹介できません。どうぞいつか、日女神の島(ひめがみのしま)におまいりください。今では女神の竪琴のように美しい呼子大橋でつながっていますので、車で簡単に回れます。この島から北側の玄界灘をみはるかすと、そのかみの鯨の島・小川島や韓国百済時代の武寧王生誕の島・加唐島、その先に壱岐、対馬そして朝鮮半島と時空を架けて夢はひろがります。このあたりは松浦党の根拠地でもありましたし、太閤秀吉の野望の跡でもあります。先史時代からの長い長い時の流れを包み込んで、タギツヒメさまの激浪とタギリヒメさまの深い霧が今日も神の世を忘れた人心を嘆いてため息をもらしているようです。藤井貞文大人命の言霊もまた。

  
   

        かくてのみあらざらめやも。皇神の島の荒磯に夕日かゞよふ (藤井貞文)




別ページ

『松浦の家苞(まつらのいえづと)
 明治7年ごろ田島神社宮司を勤めた岡 吉胤(1833−1907)が
若い時(安政6年)に、東松浦一帯を旅した旅日記の中から
田島神社の部分を抜粋



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呼子観光案内 呼子.net


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