#65
平成17年8月


このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


    #1 御挨拶

文貞寅氏

山口県のかた、ぜひ、読んでください。
情報をおねがいします。

 皆様、こんにちは。毎年8月号は戦争のことを考えるページになってしまいます。今年は特に終戦から六十年。重いものですが、文貞寅(ムン・ジョンイン)氏の手記をお読みください。原文も日本語です。文氏の息づかいを伝えるために、できるだけ原文のままにしています。文氏の独学の日本語での叫びにお耳を貸してください。とくに山口県のかたにはお願いがあります。ご協力いただけると幸いです。





玄海灘は分かるだろう!

韓国 麗水市 文貞寅

 空襲警報サイレンの音が響くと pyung ! shyung ! kang ! 機関銃の音と飛行機の轟音に続いて爆弾が投下され
防空頭巾
て、爆発する轟音とで教室の窓がひどく震動した。警報サイレンが鳴り響くと、即ち尻の下 椅子の上にある防空帽を取りかぶって、册床(机)の下に巫っていた。
皆の學生達は言葉もなく平素 空襲訓練の時 練習したとうりにした。
7歳か8歳のこどもたちがなにをわかるでしょうか? 

 地震が起ったらしごとを止めてすなわち後にある竹田へ走ってゆき竹根の上に巫っていてから解制サイレンが鳴ると出て遊んだりした。
 縦25cm、横50cm程度の棉巫布団2枚を合せ’┓’字みたいに縫うと防空帽になりますので 頭に被って紐で項のところを結べば爆音が細い蝉の音ぐらいに聞こえる。

東大阪市 石切神社

 學校に行く時、来る時、必須携帯品である防空帽を被って 册床の下に膝を押し巫っていると、胸がときとき跳てもこころはとても平安である。そのように押し巫っていると、忘れられていた思い出が浮かんでくる。
 この日も、2年位前まで大阪市石切神社 蛇商賣の路地で友達といっしょに走り遊んだことを思い出した。
 僕がいちばん幼い5歳程度だったから引け行くみたいに走りながらも、瓶の中にある色色の蛇を見るのがとても喜しいことだった。


 どうして、女子の友達、男子の友達 皆が親切で楽しかった大阪を捨て、山は高し渓谷は深い山口県に引っ越したのか? その友達がもう良かったのに。
 暖い防空帽の觸感を感じながら半寝中、いろんな思いの夢を見ながら別の世を徨っているうちに、鋭い警報解制サイレンの音を聴て精神がさとった。
 先生の話では、美軍(米軍)B29の爆撃があって隣近都市が多い被害を受けたという。家に歸ると母親が 大變不安な表情で父親と目話しをするだけだった。


 母親はいつも静かでして、朝はやく何處かにいって夕方頃歸ると大人達は言葉もなく相互に目配りをするだけだった。
 母は 時には細い腰に米で胴巻をつくって妊娠婦みたいに腹に巻いて来る。
 隣の小母達と親しく来往しながら、母は子供達には稱讃と供に餅や甘砂糖をあたえながら、「虎ちゃんと仲よく遊びなさい」といって、日本子供達の肩をたたいてやりました。いつか僕が学校から帰ると「虎ちゃん、吉子ちゃんの母親が餅をもってきてくださったのよ。おまえが悪い子供達が吉子を虐めるのを救ってくれたといいながら―――。虎ちゃん!我らは日本に住んでいる朝鮮人ですから 絶対に悪い事をしたらいかないよ。悪い子供達から虐められても、押し離して逃げなさい。相対に傷をつけたらいかないよ」と話しました。

戦前の関釜連絡船

 山口県谷間に雨が降るある夜、母親は僕に、「虎ちゃんもこのようにおおきくなりましたから母の話が理解できるでしょう?朝鮮国に日本人が来てからは、生き道がなくなってしまい、我らは釜山まで行く旅費だけを持って釜山に行って、釜山で労働をして日本に行く旅費を用意して 関釜連絡船に乗ったのだ。大阪に到着して言葉も通らない日本で色々の仕事をしながら死ねらず生きていたのだ」


 母の話をきいている7歳だった僕の気持がどうなったのかは今ではしらないが母の話だけは鮮やかに耳辺に甦る。
 其の年(1937年)おまえを孕んだし、生活もちょっと余裕がでてきて古物商をひらいて生活するようになった。お前が4歳になった時、太平洋戦争(1941)が起きて、一般工場は門を閉鎖するようになったし、鉄はみな軍需工場に送るようになって、古物商をするのは難しくなった。それに戦争中、日本の役者たちが朝鮮人 商人達を虐め、父親は役者たちに唐辛子を振り撒いて殴ってやったあと、風呂敷包みだけをもって跳走して、着いたのが此処山口県だった。


 戦争中にも日本国民には少しでも米配給をしましたが、朝鮮人はどこかで闇売米を探しもとめなきゃいかなかった。闇売米を買っても、運搬道中に見付けられたら、奪われるとか拘留されるから、母は日本女人の行色をして、米を子供みたいにして、負うとか腰に巻いて買ってくるのです。
 我が村の日本人達は感じ付けているけれど、其の良い人達は我の形便を考えて知らんかおをしているのよ。ですから村の子供達と争わず仲良くあそびなさい。わかりますか。お話をしながら母が溜息を吐くのがなかなか可愛そうにみえました。

 其んな中でも山口県は子供達には楽園でした。傾斜の深い渓谷の水の中には色々の漁が沢山あったし山や野には山芋、芋、とうもりこし等が豊富にある所でした。

戦前の下関港
 ところが、ある日、学校から帰ると村辺で逢った小母達が暗い表情で立っているし、小川で洗濯をしている小母達の目が赤く充血されて前掛で涙を拭いていた。
 空には重いB29の群が余裕満々に飛んでいるのに、空襲警報も鳴らないし、爆弾洗礼もなかった。いそいで家に帰ってから聴いてみると、日本が無条件降伏をしたという裕仁天皇の放送があったという。父がみえないので父親は何処に行きましたかときく、帰国船を探す為に下関港に行きましたという。


 夕方ごろ帰った父親は何名の家と一緒に帰国船一隻を貸すように契約しましたといいながら、荷物を包めといいました。父は背の荷物を簡単に包むが、103種ミシンはきっと持っていくようにやれと言いました。
 2日後の夕方に、名前もしらない港に、私達家族は船に乗った。祖国に帰るという一念だけで、用意した握り飯で夕食をすまして、玄海灘の荒しい波に凡てを任せました。台風注意報がかけられた下に出航しましたから、船の中は吐く人、泣く人、疲れて寝ている人、皆が祖国だけを考えて辛抱しているとき、不規則な機関の音が止めて、故障だという知らせがありました。
 皆様が故障を直す時を待っているとき、船舶関係者が沈鬱な声で暴風警報を知しました。間も無く強風が不規則的に吹き、船内の人はこちらあちらに押し投げられました。


 次日11時頃 船舶の責任者が現れ、「済まないが我等の運命もこれで終いかも知りません。済みません」といいました。女子達は「あいご あいご」と泣くし、男子達は合掌をして「南無阿弥陀仏観世音菩薩、南無阿弥陀仏観世音菩薩、何卒、家族救うてください」と叫びながら恐ろしい心を念仏で押さえました。
 母親は涙をだらだら流しながら’下チマ’の裾を裂いて指輪を挟んだ指を巻きながら、人が溺死したら魚が指輪を挟んだ指から切り食うといいました。


 どうする方法もなく酷い暴風雨のなかを漂流している私達の耳に、細いエンジンの音が風にのってきこえました。もしという心持で音が聴こえる方を見ていると、黒薄い鉄船が近ついてきました。
 皆様は“萬歳!萬際!”とさけびながら 仏様と神様の加護を感謝しました。ところが其の船は日本海洋保安庁所属の船で、日本人 帰国船がもし遭難に合うかと心配して出て来たと言って、そのまま帰ろうとしました。 その瞬間、敏い男子何名が其の船に飛び乗って頼みました。
 国籍はどうなっても、死ぬ人をみてそのまま帰りましたらいけませんですようと事情を話すと、日本船の船員はそうしたら朝鮮にはいけられんから日本までは曳引してやるといいました。我らはそれでも有難いと感謝をいって又日本に向けてまわりました。

当時の釜山港

 其のあと子供(2男3女)5名と妻を知らぬ埠頭に置いて帰国船便を探す為に徨った父親の内心は胸が裂けるぐらいだったでしょう。ただ絶望感だけを抱いて誰も相談する所もない他国の見知らぬ港で内涙を流しながら迷っている父の姿を考えると字(この文章)を書く今も涙が溢れる。そうしながら日々が流れ 釜山港に着く迄7日がかかった。
 その時 釜山港では頭くらいの梨一つに1円でしたけれども、勿論金がないのでかってたべるのはできませんでした。釜山港のあちこちには誰かを追う呼び子の音に何のスロウガンを叫びながらおたがいに取り毟って喧嘩をしながら騒ぎ立っている風景だらけだった。


 7年間の戦争をして敗戦した日本国民は、廃墟になった国土で秩序整然に帰国する国民を助けるために救護事業も展開するし、海上で向かい船も出しているのに、36年間の日本被圧から解放した我が国民は、帰国民ですか?と訪ねて来る機関や団体もなかったし、歓迎してくれた人ひとりもない。
文氏の両親
 暴風が吹いても海上救援隊もださなかった。幼い僕の目には死にちかい苦労をしながら祖国に帰国しても歓迎してくださるひとがないのが怪しくみえました。順天行きの汽車に乗るために釜山駅にいった。多い人たちが列を並べていました。我が家族も相当歩いて長蛇陣の尾を探すようになりました。


 列の一番あとに立ってから三日目に列車にのることができました。大変疲れた身と心をひいて故郷である麗水に到着した。旧港隅に荷物と家族を待たしてお父さんと僕は空き家を探す為に市内中心地を彷徨しました。しかし空き家はありませんでした。午後3時頃に今の忠武洞交番署の前に白い煉瓦塀で囲まれた大きい屋敷がありました。大門が固く閉められているのでお父さんは近くの鉄物店に行きバールとハンマを買ってきました。鉄棒をするようにして大門を越えて入って錠を潰して大門をあけました。家族皆が入り掃除を済ましたあと一晩寝て朝おきると我が家になりました。非常に珍しいことでしょう。小さい家は皆初めに見た人たちが自分の物にしたが、手をださなかった大きい家が我がいえになったのだ。それから二年くらい経ったとき、麗水警察署長が人をおくって、今の家は個人が使うにはあまりおおきいから、専売庁の側にある建物と1:1に交換したらいかがでしょうか?と提議してきて、初めには拒みましたが、結局承諾するようになりました。以上が6歳から8歳まで僕が経験した光復(終戦)当時前後の体験談である。

美しい麗水市は唐津の姉妹都市です。

 すこし恥ずかしいところもありますが、率直に書いて未来解放を再照明するとき助けになることを希望している。
振り返ってみると、1937年日中戦争が起こった年に僕は生まれ、4歳のとき太平洋戦争、8歳のとき解放、12歳のとき麗水14聯隊反乱事件、14歳のとき6・25動乱、24歳のとき4・19革命、25歳のとき5・16クーデタを経験してそだった僕がこのくらいでも垢のつかない人間として暮らすようになったことは、お供だちと隣の方々のお蔭だと考えて深く感謝している。
 前に向う解放60周年にも、我等がどのように苦しんだかという焦点より、我等はどうしてこのように可愛そうな民族に転落したかを徹底的に究明して反省しながら、過去や未来より現実を正しくやり直す所に意をあわさなければならないとおもいます。


 この文章は、6〜7歳の時に撮った古い幼稚園団体写真一枚で僕が育った山口県のある村をさがすために、独学で習ったまずい日本語でむりやり書きました。どうぞよろしくお願いいたします。




 
 いかがでしたか。胸にせまるものがおありだったと思います。

 下の写真はムン氏の唯一の日本での写真で、幼稚園らしいです。右下あたりの矢印がお見えになりますか。それが、その頃「虎ちゃん」と呼ばれたムン氏です。ムン氏は、この町が山口県の何処であったかを知りたいそうです。そこを再訪して幼い時の思い出を辿り、今の自分を再確認したいという熱い思いです。心当たりがあるかたは、どうぞ情報をお寄せくださいませ。  洋々閣女将メール  info@yoyokaku.com  



 日本には敗戦、韓国には解放の直後の昭和20年8月末から9月初め頃、ムン氏の家族が命からがら釜山へ引き揚げようとしていた、多分、その同じ台風の頃、私の母は4歳の姉と1歳の私をつれて、やはり命からがら釜山から内地へ引き揚げてきました。父と再会できたのは、そのあとですから、船の中でどんなに心細かったことでしょう。もしかしたら、二艘の
戦前の釜山市 このどこかに私の家が?
引揚船は玄界(海)灘ですれ違ったかもしれません。私にはなんの記憶もありませんし、姉も覚えていないようです。母は今89歳で、一切を忘れています。私もまた、ムン氏のように、わずかなヒントをたよりに、自分が生まれて1歳までいた釜山のうちを探したい、その地で死んだ祖父がそこに残したという句碑を探したいと、かなわぬ夢と思いながらも心の底にかすかな望みを捨てきれません。そのうち、引退してひまになったら・・・・。何年後かにこのページに書けるといいですね。私が生まれたところを探し当てた、って。

 では皆様、ごきげんよう。また来月、さわやかにお目にかかりましょう。
 よい情報が飛び込んでくることを祈りつつ。さようなら。


今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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