#82
平成19年
1月
賀正

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶




今年は春から縁起がいい、かも。 

三社参リノススメ

 明けましておめでとうございます。
良いお年をお迎えになりましたか。

 お正月号には何を書こうかな、と考えていたら、「今年は春から縁起がいいゾ〜」とだれかがささやく声がしました。
誰だろう?神様?仏様?ご先祖様?

 私はいとも信心深き老女でありまして、毎日、神様仏様ご先祖様を拝んでいますので、時々そのうちのどなた様かが耳元で何かをささやいてくださって、おかげで鍵の掛け忘れに気がついて強盗に殺されずに済んだり、10円拾って大儲けをしたりするのでございます。

 今回は新春でもあり、きっと神様系統だな、と見当をつけて窓の外を見ると、冬とも思えない穏やかな唐津湾の中央に鎮座ましますのは、かの有名な「宝当神社」のある高島ではございませんか。
4年ほど前にこのページに宝当神社のことを書きましたが、いまだに宝くじの当たる神社としての人気は衰えず、ここ2、3年、ツアーが組まれて沢山のお客様が海を渡られます。
「ハハア、高島が私を呼んでおられるな」と、私は海に向ってかしわ手を打ち、「ハイハイ、只今参上つかまつりまする」とかけまくもかしこみかしこみ、まおし上げたのでございます。

 そういうわけですから、今回のこのページでは、宝当神社と宝満神社、金の字のつく金毘羅宮、なんとも縁起のいい神社の三社参りとまいりましょう。どうぞお賽銭をおはずみくださいませ。





宝当神社

唐津市高島

宝くじ当たりたければまず買いな」―宝くじ売り場のおばさん

 高島のこと、宝当神社のことは、前に一度書きました。(こちら) それは4年前になります。その時から、高島がどう変わったか、今回もう一度宝当神社におまいりすることにしました。
海上タクシーと桟橋(洋々閣から徒歩5分)
平成18年12月15日、晴れて波も穏やかですので、「よし、今日だ」と飛び出しました。
海上タクシーも何艘も参入していて、待つほどもなく4人乗せただけで出発してくれました。松浦川の出口は100メートルほどに狭くなっていて、その真中に「姉子(あねご)の瀬」といわれる岩場があります。その昔、遭難の悲しい歴史がある岩です。岸からこんなに近いのに、嵐の海で助からなかったのですね。この岩
姉子の瀬
の横を通りすぎると唐津湾に出ます。正面に見える高島までわずか5分。船酔いする間もありません。
桟橋に着いて正面に案内が出ていて、神社までは徒歩3分。あら! だいぶきれいになっている。この神社より大きい社務所は前からあったかな? おみくじやお守りも売ってる。あ、ひらめいた。「宝くじに当たる」、だけでなく、「選挙に当選する神社」と宣伝すれば、お賽銭が大きいかも。来年は選挙だし。100万円くらい入れる候補がいたりして。

 邪念を払って参拝した後で、きょろきょろと見回せば、前回よりもきれいな幕だとか、かざりつけが出来ている。テーブルには何冊ものノートがあり
宝当神社全景
、「宝くじに当たりますように」と、どなたも実名住所入りで書いている。個人情報はどうなるのか?でも、ちゃんと書かないと神様が他の人と間違えるかもしれないし・・・。いらん心配をしながら、神社の後ろをくるっと回って、前回老朽化していたところがちゃんと修復されているのを見て安心。
神社を出て左に「宝くじ売り場」と矢印がでているほうへ歩く。3分ほどで売場へ。宝くじをこの島で買えるようになってからまだ永くないです。だからこの売り場から一億円が出た、とかは聞いた事は無いけど、神様が足元から出そうと思っておられるような気がしてきたから、生まれて初めて宝くじを買いました。10枚、連番、3000円。年末ジャンボが当たる予感が・・・。あたったらどうしよう・・・。夢想しながら歩いていたら、当たった!、ビールの空き箱につまずいた。見れば、「お食事処」と書いてあり、海鮮丼、ウニ丼、イカ定食なんて旗がハタハタとひらめいてる。これも神様のお告げでしょうから、朝ごはん食べてすぐ来たの
ウニ丼1100円だった。ウニがたくさん。
に、「ウニ丼」を食べました。

 おなか苦しくて歩けない。けれども帰りの船が待っているので、がんばって急ぎ足。私が乗り込むと船がギーッと鳴ってかしいだのよ。失礼しちゃう。

 帰りも快適な船旅5分。今度は8人ほど乗っている。一人500円だから4000円、このオジサンは一日何往復するのかな、ガソリン代を引いて・・・と、またいらぬ心配をするうちに、唐津城下、なつかしの桟橋に戻ったのであります。

 買った宝くじは、うちの神棚に上げて、発表を待つことに。折角ですから、一枚だけ、皆様に差し上げます。このページの右上から、コピーしてお使い・・・にならないでください。お正月に、私が一億円当たったかどうかだけ確かめてくださいね。当たったらお祝いを送ってください。ありがとう。

   

宝満神社
唐津市宇木

宝当に負けておれるか宇木もやるゾ」―宇木うき村おこしの会のおじさん

 唐津に住んでいて、最近噂の宝満神社に行ったこともなかった私が、このページの取材でようやくここを訪れたのは上記の高島行きより三日前の平成18年12月11日。快晴の暖かい日和で、軽装で出かけました。宇木にウキウキとピクニック気分よ。
ここから国重要文化財の銅剣等出土
 
 唐津競艇場の前の道をまっすぐ南に走るとほどなく「宝満神社はこちら」の手作りのサインがあり、そこを左折。畑やハウスの中の道を走ること10分くらい。「宇木汲田遺跡」の案内を過ぎて間も無く左側にありました。
「宇木小学校跡」というモニュメントのある元グランドとおぼしき空き地が駐車場になっていて、横の建物はなつかしい感じの淡い青のペンキ塗りの木造洋館。窓には全部金網が張られ、がらんとした中の一部屋に下駄箱が見え、靴が何足か乗っていました。その横に村人がみんなで作ったという感じのトイレがあり、お借りして見ると、コンパネで作ってあるものの真心がこもって
高さ13メートルの大門松
いてきれいに掃除してあり、いい感じです。車いす用もありました。

 さて、神社の方へ行くとまず目に飛び込んできたのが一対の大門松。何と高さが13メートルもあり、生まれて初めてこのような巨大門松を見まして、感激。なんせ、一番下の基礎になる円形の壇は直径4〜5メーターあり、二番目の壇には貝塚イブキが数本、梅、数本、というように、木が10本くらい丸ごと植え込んであるのです。中心には鯉のぼりをあげるような孟宗竹が5〜6本、天を突く高さに聳え、真下から見ると目がまわるようです。
 
宝満神社正面
その二つの門松の間に鳥居が見えて、ここが宝満神社でした。

 由緒を見ると、この地区にあった三つの小さい神社、宮地岳神社、宝満宮、住吉大明神が明治後期に合祀されたとか。三つの鳥居がそれぞれその名を示していました。






寶満宮の扁額
一番前の一番大きい肥前鳥居が扁額に「寶満宮」とありました。それほど高い山でもなく、20段ほどで拝殿に着きました。近年は宝くじの祈願が多いと説明書にありました。宇木村の村おこしグループの皆さんがいろいろ手を入れておられるようで、こざっぱりと清掃されていて、菊のご紋入りの石灯籠(由緒は書いてない)や、手水鉢などを眺め、鈴を鳴らしてお賽銭を入れて拝んで来ました。その時はまだ宝くじは買っていないので、とりあえずは何を祈願するでもなし、まあ、今後ともよろしく、とご挨拶して、ここを離れました。
 
カラスの大群
 帰りに鏡山の横の地区を通ると、無数のカラスが空っぽの田に舞い降りてなにやら拾って食べています。このカラスたちが、昼間はここに通勤し、夕方唐津湾を飛び越えて大島山の巣へ帰るときに大群でうちの頭上を通るカラスさんでしょう。それは怖いくらいですよ。山には七つの子なんてものじゃなく、7000羽くらいまあるい目をした子がいるのかも。
 この地域、鏡、宇木、柏崎のあたりが古代のまつろ国の中心だろうといわれていて、遺跡の多いところです。道沿いにも今は上を削り取られて畑になっているけれども、きっと古墳だったのではないかしらと思うような形の小山が列をなしています。豊かな土地にうぶすなの神々が居られた霊力の強い土地柄ではないかと思います。きっと、宝くじも当たるでしょう。ほんとに、今年は春から、縁起が良いかも。


金毘羅さま
唐津市東町

コンピラさん、おしりに帆掛けてあげとくれ」― 匿名希望 

 一度、登って見たかったのです。この石段。鳥居の前は国道202号(旧道)が通っていて、唐津から伊万里、佐賀
金刀比羅宮の門柱
に向う道。松浦橋を北から南に渡ってすぐ左に曲がって、右手に聳えるこの石段の参道が通りすぎるたびに気になって、いつか登って見たいと思っていました。ただ、この脚がねえ。骨折後2年半を経過しても、リハビリをさぼったせいか、アキレス腱あたりが硬縮して階段はむつかしいのです。おまけに制限重量オーバーのため、うちの二階に上がっだけでも心臓がバクバクですからね。
今回、思い煩うこと3晩。ようやく意を決して、看護婦を連行して、必死で登ったのであります。

 唐津市東町のホテルリベールのま向い。道からまず10段、なんなくクリア。10歩ほど歩いて鳥居をくぐる。そこから40段。集中しようと、数えながら登
幸い真中に手すりがある
る。「ハナ、トゥル、セッ、ネッ、タソッ、ヨソッ、イルゴプ、ヨドル、アホプ、ヨル」
これ、韓国語。十一から先は知らないので、「イレブン、トェルブ、サーティーン、フォーティーン・・・」 そのうち、わからなくなって「さんじゅうさん、さんじゅうし、・・・よんじゅう、ヤレヤレ」。小さい踊り場で振り返って見るとわずかこれだけ上がっただけで、さすが海の神様、コンピラさま、眼前に広がる松浦川河口がすぐに唐津湾に出て、出口に立つ白亜の唐津城が美しい。松浦川の輝く水面に水鳥が悠然と浮ぶのが見えます。絶景かな。

 一息ついたら、次の40段ほど。手すりにしがみついて、高所恐怖症と戦いつ
金毘羅さま眼前の景色
つ、一段一段、上がっていく。付き添いの看護婦兼運転手嬢は私のお尻を押そうと言うが、二人一緒に転げ落ちるのが怖くて拒否。失神寸前になんとか、クリア。また振り返ってみると、さらに高くなった視点からははるかな神集島がすっかり見渡せる。

 二息ついて、さらにがんばる。もはや数える余裕はなく、痛み出した腿を引揚げながら5段、歯を食いしばって、さらに3段。「コンピラフネフネ オイテニホカケテ、シュラシュシュシュ、、、」とおまじないを唱えつつ、こんな風じゃ、1300段もある四国の金毘羅さまにはとてもじゃないが一生お詣りできないなと、へんに冷静になりつつ、合計124段、最上段へ到着。

 三息ついて振り返ると、唐、天竺までも見えた、気がしたのでした。
少し広くなった山上には南からの陽が差し込み、春かと見まごう草の青さの中に、ホトケノザや、イヌフグリまでもが咲いているではありませんか。十二月なのよ、君たち、なにまちがえてんの。見上げれば、小さなお社の横の藤棚にはまだ葉が残っていて、黒くなった藤のマメがのんびりとぶら下がっていました。
おやしろは小さいが姿が美しい

 ここのお社は、本殿だけがあって、その前にあったらしい拝殿は礎石だけ残っていました。
残念ながら、いつの時代にここに金毘羅様を勧請したのか、書いたものが境内に何もなく、どなたに聞けば判るかも判らず、ただ、安永三年とか五年とかが寄進された手水鉢や石灯篭に彫ってあるので、大体230年ほど前の、水野候の時代だな、と思いつつしばらくたたずみました。石灯籠の中には水野という文字もありました。
 ここは現在は唐津市東町に入っていますが、元は「海士町」に属していました。「あままち」と読みます。「あま」が、「海士」であり「海人」や「海女」でないのは、唐津藩の水軍の侍たちの居たところだからだろうと思います。だったら、ここに海上守護の金毘羅さまが鎮座されるのは、全く理に適ったことでしょう。そしてこの山のある地域は「神の浦」と呼ばれていたそうです。海士町の出来た約400年前からこの神はおいでになったのか、それとも、石灯籠の年号で見るように約230年前に勧請されたのか、どうなんでしょうかねえ。

 その時私の頭に浮んだのは、「木屋家」ということばでした。
400年前に豊臣秀吉の「唐入り」の野心に付き添って堺から移ってきた木屋利エ門は、回船問屋でした。名護屋城築城や、それに続く出兵の物資を一手に引き受けて莫大な財をなした堺商人は、秀吉がこの地を去ってからも唐津に留まり、寺沢候のもとで城下町唐津を形成していった人です。230年前の水野候の時代にもいっそう繁栄して江戸にも鳴り響く豪商でした。この木屋家の別荘が、金毘羅様の鳥居の向側、今のホテルリベールのところだったそうですから、私としては、この山の上に海上安全の神様をおつれしたのは木屋家じゃないかと想像するわけです。どなたかのそのあたりを解明してくださいませんか。
さざんかの間に見える浮岳
 
 あれこれ想像を逞しくしながらお社の周りを歩き回っていたら、海側のさざんかの生垣の隙間から、浮岳が見え、まさに絵のようで、これを見ただけでもここに登ってよかったと、金毘羅さまに金の字がつくからお金に縁があるかもしれないと勝手にこじつけたいやしい下心は忘れていました。
 
 そのあと4,5日、金毘羅さまが気になって眠れません。あちこちに電話を掛けて辿りついたのが、東町の米田さんと松下さん。18日にお会いして来ました。東町のかたがたは金毘羅さまの昔の賑わいを取り戻そうと努力しておられます。お社一つをお守りするのは大変なことですね。費用も労力もかかります。本殿は昭和20年、台風による倒壊後の再建、拝殿は近年火事で消失したそうです。米田さんから苦労話をお聞きして、松下さんから資料をいただいてきました。

 資料によると、唐津藩初代の寺沢候の唐津城築城に伴い、満島山(現唐津城の所在地)から遷されたという説もあるとのことです。ただ、大正四年発行の『東松浦郡史』によると唐津城築城時には満島山には7つの社寺があって、それぞれ現在の地へ遷されたとなっていて、その中には金毘羅宮は入っていません。それに松下さんがお持ちの唐津の絵図の寺沢時代のものには金毘羅宮は描き入れていないし、近年発見された土井候時代の唐津の絵図にも入っていないとのこと。やっぱり石灯籠や手水鉢の年号の水野候時代かも知れませんね。今のホテルリベールのあたりは後年埋め立てられたものだそうですから、金毘羅様がここへお出でになった頃は、目の下がすぐに川だったでしょうし、川といっても海とも言えたところですから、軍船がずらっと停泊してたかもしれませんね。
 詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。そして、金毘羅宮の復興にお力を貸してください。
 
 賑わいを取り戻した金毘羅様の大祭、4月10日、10月10日に、綿アメを食べ食べ縁日を覗きながら、コンピラフネフネと歌っている可愛いオンナノコがいたら、それはワタシかも知れない・・・。 
 そんなワタシに私は会いたい。



 これで、私の「三社参りノススメ」はおわります。
宝くじに当たりたいかたはお試しください。今年は新春から縁起がいいかも。ただし、私は責任はとりませんですよ。当たらないかたは日ごろの心がけがお悪いせいですから、反省してください。
では、この一年、おすこやかにお過ごし下さいませ。
また来月。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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