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#1 御挨拶
#87
平成19年
6月



 6月ですね。お元気ですか。
 今月は私の高校時代の同級生・江頭義輝氏をご紹介します。どんな方だかは、読んでのお楽しみ。ただ、ここには趣味の世界を書いておられますのでご本業を紹介しますと、唐津市の中央商店街に何軒かの子供服などのお店をおもちです。ペペタマヤさんといいます。しゃれた子供服のご用命はペペタマヤへ!
 ではどうぞお楽しみください。



 
波を越えて
―済州島 西帰浦(ソギポ)市へ―
江頭義輝


 「こんばんわ、ヨシテルさん、はるみです」  ・・・ 電話の声のあまりの可憐さに私の頭には声の主が浮かばない.。 「・・・・?」 「はるみですヨ」
 私の知っているはるみさんは一人だけで、バアサンだし・・・。「はるみさんというと、どちらの・・・?」
 「おおこうちはるみデスッ!」
 「えーっ、声が若い」と思わず言ってしまった.。本人とのギャップに驚きつつの一言。誉めているのかどうか。
 「ヨットで済州島に行ったんですってね。航海記を書いてチョウダ
 この人の声には催眠効果がある。術にかかったごとく「ハイ」の返事が素直に出てしまう。

 あれは46年も昔、高校1年の西の浜。あるヨットのそばを通ったとき、まさに乗ろうとしていたはるみさんから一緒にどうぞと声がかかった。ヨットの中にはお母さんらしき女性と一つ上の先輩が。これが初めての私のセーリング体験だった。その人からの頼みとなれば断れない。

 それから12年。28才の時、グループで小さいヨットを買った。この海の向こう岸へ渡ってみるのが夢でもあった。2度ほど大きい船に買い替えて40才と50才の2度、姉妹都市の韓国麗水市行きを実行した。唐津オーシャンセーリングクラブ、略してKOSC。前2回は3隻のヨットに18名が乗り組んだ。2度とも荒天の中スリル満点の航海であった。
 
 そしてまた12年、今度はもう一つの姉妹都市西帰浦へ。
今回は1隻。7名のクルーが乗ったヨットの名は「破天荒」。誰も為しえなかった事をやり遂げると言う意味を持つ。長さは9b。最年長の私が62才、最若年で54才、平均58才、全員それぞれがセーリング経験豊かなマイボートの艇長でもある。艇長は諸岡、エンジンは梶山、気象は松浦、体力の西村、無線の私、テクニックの江口、新聞記者で料理の木村とそれぞれに特技を持つメンバーである。

 1年ほどまえのある日、
 「60近くになったから元気なうちどこかロングクルージングをやろうか」
 「九州一周しようか」
 「韓国が良か」
 「姉妹都市の西帰浦に行こう」
 「でもライフラフトがいりますよ、衛星電話がいりますよ、イパーブ(衛星利用自動航跡追跡シシテム)がいりますよ。金がかかりますヨ」
 「ものすごく時化ますよ」

 1番のベテランは江口君、10回以上の福岡〜釜山の経験を持ち、済州島へも2度行ったことがある。この計画を起こしたときに、その彼がもう行きたくないと言ったのが済州島であった。経験ゆえに少しのミスが命取りになる恐さを知っている。マストを越す高さの波、海面にボスボスと突き刺さるように落ちる雷、行きか帰りのどちらかはものすごい時化に出くわすと言うのが彼の言葉であった。
 確かに、玄界灘とは真っ黒な海の果てを意味し、また日本列島の北海岸と朝鮮半島の東海岸の2本の線がX字を作りその要の位置にある。北東の風が吹けば波はここに集束され昔から海の難所として知られている。
 その彼を納得させた一言。
「我々全員、姉妹都市の麗水市には行ったがもう一つの西帰浦市にはまだ誰もヨットでは行っていない。行こう」
それで決定した。

 前置きが長すぎました、航海記へ入ります。
 
五島 野崎島まで

 2007年4月28日 午前7時 天気快晴。唐津湾を出て船首を西へ270度、波高2b アビーム(横風)の風5b(10kn/h)。言うこと無し。 往復400マイルの済州島西帰浦市(JEJU−do Seogwipo)への航海が始まった。
 唐津から平戸への通い慣れた海路を進む。船首が波を切る音はいつもより穏やかで心地良い。
 船は順調に平戸島沖を過ぎた。歴史の深い海域である。
生月大橋をくぐる
 平戸は400年の昔、オランダとポルトガルが貿易を競った港。鎖国令で長崎のみが開港を許された港になるまでの30年ほどの間栄えた。ザビェルも宣教に訪れ、今も当時の商館跡の礎石や井戸、石壁などが残っている。
 船は平戸島と生月島の間に入る。ここは隠れキリシタンと言われる人々のすむ島。鎖国令、禁教令と弾圧の中に250年ものあいだキリストの教えをひっそりと守り続けた人々の島である。海から見ると玄武岩の海岸線に少しの平地。島の草木はすべて南に倒れて育っている。北の季節風がすさまじいらしいが今日のヨットはゆったりとした波を立てながら進んでいる。不思議なくらい穏やかだ。

 午後2時、太陽は頭上に、ヨットの後ろに流している釣針には何もかからぬ。
 一句。「春の海 ビールを飲んでみなゴロゴロ」

 
無人島の教会
島の最南端、生月大橋の下をくぐる。橋脚の根元には暗礁があり、以前江口君が自艇のキールで暗礁を削っている。以来注意して橋脚の中央を進む事にしている。この橋をくぐれば東シナ海、次の目標は25マイル先の五島列島の野崎島である。外洋に出て少しましな風がやっと吹いてきた。

 野崎島は南北100キロの五島列島の北から3番目に位置する小さな無人島である。海は透き通り、白い砂浜、鹿の姿、谷間には赤煉瓦作りの小さな教会など、自然の美しさに感動する島である。 5年前までは40人ほどの人々が住んでいたが全住民が佐世保に移住してしまい、以来無人島になっている。ただ、今でも観光客には人気があり、無人島に定期連絡船が通っている希有な例として有名である。

 夕方18時アンカー投入、今夜はここに仮泊する。 男7人 鯖缶の猫飯で乾杯。


西帰浦へ向かう
 
 4月29日 朝
 夜半にはマストを震わせて風が鳴っていたが今は落ち着いている。今日も天気快晴。 五島列島は日本の最西端にあり我々の進路を塞ぐように横たわっている。奇岩奇勝の島で、帆揚げ岩、鍋ツル岩などその名の通りの形をしている。その間を抜けると海の彼方に見える雲を呉か越かと歌われた東シナ海にでる。

『白鶴』と私
 10:00 「ヨット、ハテンコウ」と無線で呼ぶ声。水産庁の漁業監視船『白鶴』が珍しそうに近づいてきて行き先をたずねる。
 「ソギポへ向かい航海中」と応答すれば西へ動き出した。進んでは止まり、進んでは止まり、先導してくれているかのようだ。凪ぎの海なのに漁労中の船は少ない。本当に領海いっぱいで作業中の漁船の近くで停泊して待っていてくれた。大型マイクで安全航海をと呼びかけて監視船は東に戻って消えた。

 15:00 我々は交代で仮眠をした。水平線に時折大型船が動いていくのが見える。太陽が西に傾きかけた頃初めてトローリングにシイラが2尾かかった。1bはある大物でみんな大騒ぎ。名人梶山が手早く3枚に下ろして早速刺身とバター焼きにして食べた。 が、何しろ大
カッチョ
き過ぎた。半分は捨ててしまった。もったいないけど冷蔵庫は無いし氷も溶けてしまった。仕方がない。

 唐津でカッチョと呼ぶ鳩の少し小さいくらいの鳥が飛んできてキャビンのハッチに止まった。冬一番に日本に飛んで来る渡り鳥。30分程止まっていたが木村記者が写真を撮るため動いたらすぐ飛んで逃げていった。回りに1隻も船影は見えず、また次の船を探すのか。自然のままに任せよう。

 19:00 太陽が真赤に沈んでいく。まだ青みが残る空には十一夜の月がもう昇っている。昼は1隻も見えなかった海に、水平線を光いっぱいにしてイカ釣り船がでている。

 4月30日

 洋上で日が変わった。
 02:00 仮眠から目が覚めコックピットにでると霧がでていた。遠くの集魚灯の光もぼんやりといくつもみえる。テラー係から済州島の光が見えたとの報告。20秒1閃光の光を確認。最東端の灯台だろう。早く近づいても上陸できないから適当に時間調整しながら進んでいくしかない。ここからが気分的に遠かった。灯台の光が後ろに下がらない。何時までも同じ角度の場所に点滅しているように感じた。明るくなった頃やっと西帰浦の沖まで届いた。海図と照らし合わせながら目標の島を回り込んだ。松浦君が滝を教えてくれて、断崖から海に落ちる滝を見物して入港した。右舷に太極旗、左舷に「我検疫求む」のイエロー旗、船尾に日の丸。 作法通り。

西帰浦

 済州島は韓国南方海上に浮かぶ火山の島。島内のあちこちに噴火口が丘として残っている。形はラクビー型をして南北50`東西100`、北に済州市、南に西帰浦市があり「韓国のハワイ」として人気のある観光地。ソウル、中国、日本などいずれの地からも飛行機で1時間の距離。1日3万人の観光客が飛行機から下りてくると言う。そういえば航海中に何本もの飛行機雲を青空に見た。1時間で行けるところに48時間掛けて行くこのアホくささ、人が遊んで帰ってくる頃にやっと着くのだから自己満足に浸った世界かな。

西帰浦市
 08:00 ゆっくりと入港する、漁船、観光船、砲塔のある小型軍艦などがグーグルアースで見た場所に同じように停泊している。既視感を感じる。不思議なものだ。航海中も衛星電話で韓国と会話をし、GPSでは自艇の位置は常に把握できているし、便利な世の中になったものである。 一番奥の岸壁に接岸して係官の到着を待つ。ほどなく玄徳賢(Hyon,DokHyon) 呉壽元(Oh,SuWon)氏が現れる、彼らは唐津に職員として派遣されていた人で滞在中にはたびたび食事をし、ヨットで初日の出を見に行ったりした間柄である。数年ぶりの再会であった。洋上から電話で到着予定時間を知らせて入国がスムーズに進むよう手筈を整えてもらっていた。
 係官が到着し市役所の金銀景(Kim,Enn−Kyung)さんの通訳で我々が姉妹都市交流で西帰浦に来たことを告げてもらった。 パスポートのスタンプは明日済州市に来た時に入国も出国も一緒に済ませ
海鮮料理
ましょうとのこと、審査は簡単に終了した。 今回の済州島セーリングの目的は1に再会、2に韓国料理、3に観光の順。まずは時間を追いながら紹介しよう。

 昼は海鮮料理。唐辛子で真赤なスープの中に海老、蟹、貝。ぐつぐつ煮えたぎっているスープをふうふうしながら食べるのは韓国料理の醍醐味。 夜は宮廷風の
釣りグループの出迎え
料理屋で馬肉料理。韓国人は馬は食べないと聞いていたが近頃は変わってきたらしい。スープ、生肉、ハンバーグ、焼肉、と馬肉のフルコース。もしイギリス人が居たら目を回す前にあの白いテーブルクロスを剥がしてプラカードを作るに違いない。松浦君の友人の釣りグループの招待であった。自己紹介をしながら楽しい時間が過ぎた。
 宿はオンドルパンのホテル。まだ揺れている感覚の私たちに固いけど暖かい床は気持ち良かった。

 5月1日 朝は済州市に行きアワビ粥(Chonbok−jyuku)を食した。アワビの角ワタを溶かして作ったお粥。微かな胡麻油の匂いと磯の風味、これは私の一番の好物でこれを食べるために来たと言っても過言ではないくらい。これにアワビステーキと焼酎。全員満足の極み!

 入国管理事務所でスタンプを貰いマイクロバスで観光かたがた東海岸を進む。実はこのマイクロバスは遠路をヨットで来た唐津市民にという事で市役所が提供してくれたもの。非常にありがたかった。
城山日出峰
 城山日出峰(sonsan−ilchulbon)に着いた。海に突き出た噴火口の跡で標高200b位。これに登ろうと言う。年の割に皆んな若い事を言う。切り立った崖を下から見ると観光客が列をなして登っている。女子高生が「おはようございます」と覚えたての日本語で挨拶しながら下ってくる。屈託なく明るい。楽しくなる。アイスクリームをおごり写真を撮る。オジさんは女子高生に弱い。
 頂上からの眺めはすばらしかった。昨日の海が目の下に広がっている。昨日の灯台のある牛島(Udo)も今日は白波でいっぱい。下山して民族村に行った。「大長今」の撮影場所。昔の建物や生活道具が集められ展示されている。広すぎた。歩き疲れてお腹も空いた。
 
 昼は鰻の蒲焼き店(channo−Chibe)へ。 蒲焼きが1キロ単位で出てくる、エゴマの葉にコチュジャンとニンニクを乗せて食べると実においしい。島は水がきれいなので養殖が盛んなのだそうだ。 また満足!

市場
 韓国の巨大スーパー、E−martを見る。海苔やら野菜やら帰航の食料買い出しを済ませ、昔ながらの市場にも行きコザコザした珍しい物を西村君が買っていると、案内の市役所の職員さんが「何でそんな物のを買うんだ」「日本人分からない」と不思議がる。 韓国人にとっては観光とは絵葉書の景色を見て回り、大きな建物を見て回るのがそれみたいだ。まだ体験型というのは理解できないようだ。見て買ってつまんで食べてが理解できる前に大切な観光資源が消えてしまわないように祈ろう。
 その夜は昨晩のお返しの食事会をテジカルビ屋で開いた。 満腹!
 
出港、帰路

 5月2日 午前8:00 
 出発の朝は途中の朝飯屋でソルロンタン。牛スープに素麺が入ったのもの。
 税関を終えていざ出港、西帰浦沖、海洋警察艇がそばに来た。 どこに行くのか聞いている。「まっすぐ日本に帰る」旨告げる。了解したのか遠ざかる。 運が良いことに帰路もお誹え向きの風、斜め後ろから6bの風が吹いている。エンジン回転良好。対馬海流も手伝って7ノットの対地スピードが出ている。往きは6ノットだった。かなり早く戻れそうだ。
 
 昼、領海付近、コリアコーストガードと大型コンテナ船の2隻が南から近づいて来る。進路が交差しそうだ。無線が何か言っている。傍受する。 コーストガードが大型コンテナ船にヨットがいるので航行に注意するように言っているようだ。コーストガードの船尾を通過して敬意を表す。このあたりは上海〜釜山航路になるのか、今日は大型船を見かける。
 
 夕方19:00 真赤な太陽が船尾に沈む。代わって東からこれまた真赤な月が昇る。 海の真中、少し風が強くなり始めた。全員防水合羽(オイルスキン)に救命胴衣(ライフジャケット)に命綱(ライフベルト)を装着した。夜間航海の準備。時化てしまってからの作業は危険を伴う。あらかじめメインセールを1ポイントリーフした(セールの面積を15%ほど減らすこと)。いよいよだ。覚悟を新たにする。
 
 満月の海に海面が銀色に光っている。困ったことに風が後ろに振れてきた。後ろの風はワイルドジャイブを起こす。ブームが瞬時にして反対側に振れて頭を打てば金属バットで頭を叩かれたのと同じ。海に落ちたらまず助からない。ヨットで一番恐れる事故である。10年前、ジャック・マイヨールと唐津に来た「うみまる」艇長の南波氏も夜の海に落ちて亡くなった。
 
 バシヤーン。やってしまった。すごい音を立てて一瞬にセールが裏返った。波が高くなり時々船尾がフッと持ち上がってヨットの傾斜が逆になる。押さえのロープが切れていた。江口君が私をしかる。怪我が無くほっとする。夜間は危険防止と休憩のため3名が交代で寝ている。コクピットには最少人員がいる。艇長の諸岡君は何時でもどこでもすぐ眠れる特技を持つ。全員が艇長クラスのクルーなので命令を下す必要がない諸岡艇長はいつのまにか眠っている。一番の巨漢の西村君は風上側に座って艇のバランスをとっている。舵はベテランの江口、梶山組。

コサギと私
 真夜中、コサギがライフラインに止まった。揺れるライン、鳥は堪らずデッキへ。舵を持っていた諸岡君がもう2時間も前からヨットの回りを旋回していたんですよ、と云う。精も根も尽き果てた感じでデッキに座り込んだ。立とうとするがデッキが揺れて立てない、コックピットの中に伸ばしていた私の足に飛び乗ってきた。鳥インフルとやらが気になるが窮鳥もなんとかで追い払えない。しょうがなくそのまま2時間じっとしていた。いい加減疲れて江口君に預けてキャビンで寝ることにした。
 仮眠2時間、コックピットを見たら同じ状態でまだ抱かれていた。外はまだ暗い。

5月3日 日の出5時半。五島が見えた、島に近づき、やっとコサギはヨットを離れた。
 7:00 宇久の瀬戸を通過、生月島を目指す、五島に向かう数艇のヨットとすれ違う。
 18:00 帰りは早かった、海流の手助けもあり34時間で唐津ヨットハーバーに帰着した。無事ボンツーンに降りて全員大きく呼吸する。 古代の往来もかくありなんや。
 
 市民レベルの小さな交流であるが、この輪が大きく広がって行けばと願っている。


帰路、すれちがった船からの写真

クルーリスト

艇長  諸岡 壽 (60)
乗組員 松浦 一成 (54)
乗組員 江口 敏行 (56)
乗組員 西村 成人 (60)
乗組員 梶山 徳治 (60)
乗組員 木村真一郎 (56)
乗組員 江頭 義輝 (62)

One hand for ship, another for oneself
ルート




みなさん、いかがでしたか。少年達の冒険談は。
この次は私も連れて行って、と言ったら、「そうだね、イカリになら役立ちそうだね」と。ヨシテルさんにカンパイ!
ヨシテルさん、サンキュー。面白かったヨ。



今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


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