句集 『三囃』 昭和48年刊

このページは、色々な方にご協力いただいて、
唐津のおみやげ話をお伝えするページです。
バックナンバーもご覧頂ければ幸いです。


#1 御挨拶

#88
平成19年
7月

  

髪洗ふ誰にも言へぬ明日のこと  すみ女
         
ー追悼 堤すみ女さんー




 すみ女さんに初めてお会いしたのは35年ほど前でした。その頃毎日のようにお茶の稽古に通っていた私は、唐津大手口でバスを降りて、唐津神社の参道を通って北城内へ向っていました。参道脇の、もと、曳山の格納庫だったところが何軒かのお店に変わっていて、そのうちの一つ、「わらべ」というお店に心引かれていたのです。千代紙人形や、郷土玩具、しゃれたてぬぐいなどが小さなお店一杯に並んでいて、楽しくて、あれを手に取り、これを抱えてみて遊んでいました。着物姿の店主のおばさまは大輪の花のようにあでやかな笑顔で、とても話し好きなかた。「これはね、どこどこのおもちゃで、こんな風にしてね、・・・」と、話はつきませんでした。二階は小さなギャラリーとして、日本中を歩かれての郷土玩具のコレクションが所狭しと並べられていて、そこへ招かれてお茶などをごちそうになりました。
その頃買った紙の日傘はまだ持っています。ここで買った和紙の便箋でせっせと手紙を出したのは、どこのどなたへだったやら・・・。滝口康彦先生の小説が好きで『日向延岡のぼり猿』を読んだ次の日に「わらべ」でその郷土玩具・のぼり猿を見つけた時のうれしさ。外国人の友人が来ると、ここへ連れて行って、日本のおみやげを買いました。
唐津曳山の玩具がずらりと並んだ「わらべ」店内

 そのうちに、この素敵なおばさまが、実は新聞でいつも俳句を拝見していた「すみ女」さんだとわかりました。また、唐津の俳壇をリードなさっていた堤剣城先生の夫人であることも。 そして唐津市佐志の堤産婦人科の堤義輝先生が剣城先生であることもわかりました。「エッ、そういうことなら、私の中学、高校の同級生の堤憲二郎さんのご両親・・・ということになる・・・」 でも、あの、暴れん坊の憲二郎さんのお母様にしてはとてもエレガントで・・・。 
 
 「わらべ」は、すみ女さんが52歳で始められ、喜寿までなさったそうです。あとは同じようなお店をやりたいという方に譲られて、今は名前が変わっています。お医者様の奥様が、小さい、かわいいモノに対するあふれるような愛情で、採算を度外視した趣味のお商売だったと、今にして思いますが、「わらべ」を覚えている人は沢山いて、小さなお店がこんなにも市民に愛されることがあるというお手本でした。

 77歳でお店を譲られてからも相変わらず句作のほうはご活躍で、おしどり夫婦の吟行はいつも新聞で拝見していました。ここ数年はお体が弱られたようで、昨年5月に剣城先生がなくなってからはすっかり気落ちされたようでした。
 今年5月28日、夫君の一周忌の2日後に、すみ女さんは92歳で旅立たれました。憲二郎さんから伺った話では、沢山の弔句が届いたそうです。

 私などは不調法でございまして、すみ女さんに捧げる句の一つもできません。かわりにここに思い出を書いて、哀悼の意を表します。

 このページに、今唐津で6つもの句会を主宰されて俳壇をひっぱっていらっしゃる田邊虹志先生に一文を頂戴しました。ご多忙の中に、姉上にあたられるすみ女様のために、快く筆を執っていただきました。厚く御礼申し上げます。

では、どうぞ、ごゆっくりお読み下さいませ。





田邊虹城先生 (1889〜1973)


この句の碑が鏡山のふもとの恵日寺にある。


堤剣城・すみ女夫妻







   唐津の俳壇事情
         
         日本伝統俳句協会
          評議員   田邊虹志



 現在唐津にあるホトトギス系の俳句会は「ふるせ句会・橘句会・火曜句会・蘆火句会・花野句会」の五つです。
 いづれも唐津俳壇の基を築いた私の父、田邊虹城の流れを汲む俳句会です。会派に属さない波の穂句会は、平成十七年二月に他界された脇山夜詩夫氏の主宰で社会保険センターの俳句講座という形をとっていますが、縁あって筆者田邊虹志が引き継いで現在に至ってをります。唐津俳壇の基を築いた田邊虹城とその娘婿の堤剣城、そして虹城の長女のすみ女の三人は既にこの世を去りました。


 明治二十二年に生を受けた田邊虹城は本業の医師の傍ら、高濱虚子について俳句を学び、晩年は同人の資格を得て唐津俳壇の育成に力を注ぎました。虹城・剣城・すみ女の三人は唐津お供日の山笠嚇子の笛、鉦、太鼓になぞらえて「三囃」という句集を遺してこの世を去りました。三人三様の句風が見える句集です。

  紐引けば灯のともるなり花の中   虹城

  二夕茶屋を相手に書生花喧嘩    剣城

  生涯の花を一度に見し思ひ     すみ女

 同じ花の句でも個々の人柄が出て面白いと思います。晩年の寒い晩に妻を失った虹城は

  妻おろか夜寒の我を置き去りに

という句を遺しました。剣城は平成十八年の五月に永眠しましたが

  天空に虹あり人に夢のあり

という句を遺しています。そして、すみ女も平成十九年の五月に夫の後を追う様にこの世を去りました。現在は月二回づつ開かれる「ふるせ・橘・火曜・蘆火・花野」の句会と月四回開かれる「波の穂」の六句会、十四回の俳句会を田邊虹志が引き継いでいます。

 俳句界にも高齢化がすすみ、唐津の俳句会も平均年齢は七十五歳を数えます。これは俳句会に課せられた全国的な問題です。機会あるごとに若い方に呼びかけるのですが、なかなかご賛同をいただけません。俳句は年寄りのするものだ、というイメージがあるのでしょうか。このスピーディで落ち着きのない世の中に、美しい日本語で花鳥を諷詠するという雅な趣味は、スローライフを謳歌する若い方たちに歓迎されそうに思えるのですが、現実はそうはいかないようです。筆者の師は高濱虚子最後の高弟と言われた伊藤柏翠翁です。縁あって弟子にしていただきましたが、平成十一年の九月に惜しまれて他界されました。日本の俳壇に衝撃を走らせた、まさに巨星落つの感でした。先生が私に遺された言葉は「俳人としての資格は人間を磨くことだ。」の一言です。それは私にとって必死に歩き続けても到底到達できない遠い目標です。
 とてつもなく遠い目標ですが、師の言葉を日々仰いで一歩一歩俳道を歩いてをります。限られた命をどう生きるか。そんな事を考える年齢になりました。足元をしっかり見つめて、六月に開催される唐津の合同俳句会をいかに成功させるかを目下の目標として歩いて参りましょう。
  
      風止みて天に鰓ふ鯉幟   虹志




 現在唐津で俳句をなさるかたで、虹城、剣城、すみ女各先生とかかわりのなかったかたは少ないでしょう。
 田邊澄子さんは大正4年に田邊産婦人科医院の長女として生まれ、何不自由ない生い立ちでいらしたそうです。大柄な美人で女学校でも評判でした。昭和10年ごろに田邊医院に出入りしておられた当時九州帝大の医学生堤義輝氏に澄子さんが一目惚れをなさったそうで、「毎日手紙を書いていたのよ」と90歳の祝いの席でおのろけが出るほどのあつあつの学生結婚だったそうです。大正2年生まれの堤義輝氏は文武両道の人で、旧制佐高から九州帝大へ進み、剣道を得意としたますらおでした。澄子さんと結婚してからは義父の田邊熊喜・虹城先生の影響で俳句を始め、剣城と号し、戦地から投稿した句が中村汀女さんから選ばれて、「今思えばたいした句でもなかったが、戦地からの投句だったので取ってくれたのだろう。そいでのぼせてしまったもんなー」との述懐だったそうです。斗酒なお辞さず、の口で、酔うと議論をふっかける酒癖ながら、その人徳で多くの人に慕われ俳句と医業の二筋の道を93歳まで悠々と歩かれ昨年5月に逝かれました。亡くなる前日まで自宅で句会を開かれるという大往生で、床の間にはご自分で「天界に虹あり」の句を飾っておられたとか。亡くなった時の枕頭のメモに残された辞世の句は
  
   列離れ二匹の蟻の引きかえす

だったそうです。

 すみ女様の92年のご生涯は、厳しい姑さまと酒豪の夫君に仕え、一男三女のお子を育てられ、子育てがすんでからは民芸の店を開かれながらも、なお俳句の道に精進された歳月でした。創作には血を吐くような苦しみもあるとは聞きますが、いつもあでやかに微笑んでいらっしゃったすみ女さんを思い出すと、もしかしてすみ女さんの俳道は、上の色紙の句のように、「はしやぎつつ」ではなかったかとさえ思えます。冒頭にタイトルとして置きました「髪洗ふ誰にも言へぬ明日のこと」は、句集『三囃』の中の一句ですが、なにかドキリとしてこれだけで一篇の小説ですね。お二人は常に一緒で、日本中を吟行しつくして、アメリカ、ヨーロッパまで足を伸ばされたそうです。
 今頃はすみ女さんは洗い髪を結い上げて、剣城先生と天の川のほとりでも吟行しておられるのではないでしょうか。お二人で笑いさざめきながら、お互いの句をほめあいながら。どんな句をよまれたのか、知りたいものですね。

    行く先は告げぬ旅立ち麦の秋    虹志
 
                                                      合掌

   *お悲しみの中に快くご両親のお話をしてくださり、また資料をお貸しくださいましたご遺族の方々に厚く御礼申し上げます。




今月もこのページにお越しくださって
ありがとうございました。
また来月もお待ちしています。


洋々閣 女将
   大河内はるみ


      メール