安楽寺400年の松

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#1 御挨拶

#89
平成19年
8月



太閤の夢のまた夢
安楽寺と名護屋六坊


護念山 釈元臣

 盛夏となりました。お元気でしょうか。
 今月はこちらではお盆の月です。先祖供養の気持ちで護念山安楽寺と名護屋六坊のことを書かせて頂きます。
 私ども大河内の家のお寺はこの安楽寺です。ずいぶん前(何百年前?)からお世話になっております。商店街の中にあって駐車場がなかったこのお寺に、この度隣接の商業地が空きまして横から入れる立派なご門と庭と駐車場が出来ました。これを機会に昔のお庭の大切な太閤ゆかりの石が再び出されて拝見できるようになりましたので、このページでご紹介させていただくことにいたしました。
 皆様どうぞふるさとへお盆参りにでもいらっしゃるおつもりで、お読みくださいませ。




 まず、安楽寺に伝わる「安楽寺縁起」からお読みください。17年前の安楽寺開基四百年慶讃法要の時に出された『安楽寺四百年のはるかな日々』に掲載されているものを引用しています。






安楽寺縁起

                                                 
 肥前之國上松浦郡唐津、安樂寺は、京都本願寺譜代之端坊(はしのぼう)也。
其の濫觴は、文禄元年大将軍秀吉公、異國征伐の為、此の地名護屋に陣をおき、その時本願寺より端坊明然(はしのぼうみょうねん)師下國して一宇を構え、端坊と号す。今も名護屋汝茜屋町に屋敷跡あり。
 然るに其の年本願寺顕如上人遷化し、それに依り文禄二年の春大僧正教如上人大将軍に来謁し、継目の為当國に下り端坊に漸し法駕を休められ、名護屋陣中に於て秀吉公に対し給う。
 当時吾宗派は端坊の外一もなし。明然師、新に宗儀を擴める為境内に六坊を構う。
 善海坊・順海坊・了善坊・了休坊・龍泉坊・永元坊・是也(この六坊は端坊の傍寺、免牒今に現存)。
 ここに遠近の一派は悉く明然師の支配に預りて一宗の繁栄は他所にその比を見ず。
 末寺支配の簡状今も之に在り。
 扠て大僧正教如上人帰京の後、大将軍秀吉公に御目見得を賜るは諸寺の中四箇寺に過ぎず。端坊、浄泰寺、龍源寺、龍泉寺也。然るに端坊独り優恩有り。
 ここに明然師は心印を我が祖順了師(毛利元就の孫・元氏)に嘱し本寺に帰る。
 その後秀吉公軍勢を小西行長、加藤清正、両将に命じ大阪へ帰り給う。
 一両年の後異國平治の時に及びて、寺澤志摩守廣忠(高)公に唐津を賜り一城を築かせらる。其の時順了も斯の処に移る。幸いなる哉。国主廣忠(高)公と懇意浅からず。当所町割りの最初に任意に境内地を構う可しと云わ
開基以来の本堂
る故に、望の侭に今の呉服町に居を構え端坊と名乗る。               
 慶長元年也。六坊も相い続いて来る。 
 端坊本尊は檜像の阿彌陀如来にて、教如上人之御裏書、印章あり。今もって拝す。
 其の後四〜五年を経て順了師上京之時、教如上人より木像阿彌陀如来佛を賜り、又端坊を改め安樂寺の寺号を賜ると共に印章を許さる。これより次第に六坊も各寺号を賜る。善海坊は本勝寺、順海坊は安浄寺、了善坊は行因寺、了休坊は傳明寺、龍泉坊は正圓寺(これは延宝年間に西本願寺に転派)、永元坊(是は還俗し、寺号を没さる) と。
 然るに当寺の本尊は長二尺五寸阿彌陀如来にて、行基菩薩の彫刻也。もとは当国五箇山中天川村西光禅寺に安置す。しかるに或時住持に示現し給うに「われ寧ろこの山中に隠れんよりは市井に出てひろく衆生を済度すべし」と。これにより 住持は示現に従い安樂寺に移し奉らんとせしに、西光寺の檀徒の人々挙って悲歎し「この本尊は古へよりこの寺に伝わる威神之霊佛なり、何とて他に移し奉るベきか」と。よって再び寺に安置するもこの後御本尊の御告げ数度に及び、遂に安樂寺に移し奉る。
 順了師本願寺の意向を伺いしに、行基菩薩の作像を新たに当寺の本尊に仰ぎ奉るべしと本願寺の使者宮内卿法橋来りてその旨を達せらる。よって初の御本尊は本勝寺に今も安置しあり。
 其の後本山の世代替るに従い各上人の肖像並びに印章を賜う。
 又当時順了師は教如上人より親鸞聖人の御影像を賜りたるも、その後本山の御意向にて、同影像は本山に奉納され、後年同影像の御写しが下附せらる。現今の寺宝 嘯(うそぶき)乃御影、(或は安静之御影)がこれなり。     ー後略ー
  (当寺第六世住職 鏡空律師智山師(?−1720)誌より) 
                   


 少々むつかしゅうございますね。お借りした他の資料の中から、少し補ってみましょう。

 端坊開基の文禄元年は1592年に当たりますから、415年も前のことです。第一世の明然(みょうねん)師は翌年に二世順了師に譲って本山へ帰られました。この順了師が毛利元就の子元春の二男で、今に至るまで毛利家が代々のご住職です。
 400年のはるかな昔、大陸への侵攻という野望が破れて太閤秀吉は去り、名護屋城はその役割を終えました。唐津領
曾呂利の築庭
は秀吉の臣、寺澤志摩守廣高公に与えられ、堺から来ていた豪商・木屋利右衛門などの働きにより町割がなされ、江戸時代の唐津の繁栄の基礎が出来上がりました。端坊が唐津の呉服町(現在地)に移ったのが慶長元年(1596)です。その3年後の慶長4年(1599)に本願寺第十二世法主、教如上人より木像の阿弥陀如来を賜り、安楽寺という寺号を賜っています。
第十二世までは駕籠を許されておられた。
真下から見上げた網代駕籠

 現在唐津市の商店街の中にある本堂は開基以来陣屋造りの伽藍にて380年間法統を守ってこられましたが、老朽化に伴い建て直しの必要に迫られ、移転して建物を保存することを希望されましたが、莫大な費用がかかるためやむなく同じ場所でコンクリート建設となりました。昭和41年に住職となられた先代・第十五世毛利元臣師により、昭和45年に着工して昭和48年落慶法要の段となりましたが、その際に曾呂利新左衛門の築造になる昔の庭園を解体されました。その後昭和52年から55年に山門、本堂増築、会館建設など、次々に着手されました。寺の様子は変わりましたが、樹齢400年以上の蘇鉄は今なおみずみずしい緑を保っていますし、松は同じく400年の風雪に耐えて、その空洞の幹に耳を寄せると大陸へ大陸へと怒涛となって寄せた閧の声が響くような気がします。

 昭和56年には東京本願寺が大谷派から離脱された際に安楽寺も離脱され、現在はその末寺となっておられます。
樹齢400年以上の蘇鉄
平成2年10月13日には大谷光紹御法主台下と貴代子御裏方様をお迎えして安楽寺開基四百年慶讃法要が厳修され、その折には私共も参列させていただき、また御法主台下と御裏方様には洋々閣にもお越しいただいて、誠に恐れ多いことでございました。
 
 その後平成6年に第十五世は遷化され、現在は第十六世毛利元裕師が継いでおられます。法脈、血脈を継いで400年の法統を守るということはなみたいていのことではなく、今回隣接の土地を購入され
現在の本堂
てご門と駐車場を建設され、庭に昔の曾呂利の庭にあった秀吉ゆかりの石などを配置されました。ようやくこのたび工事が完了したところでございます。ご苦労をしのび、檀家としてありがたく御礼申し上げます。

 さて、話は400年前に戻り、名護屋六坊も安楽寺に続いて唐津に移り、それぞれ寺となりました。
 六坊の筆頭の善海坊は米屋町で本勝寺に、了善坊は同じく米屋町で行因寺となられました。龍泉坊は新町にあり正円寺となり後に西本願寺派に転じられ、順海坊は同じく新町にて安浄寺に。この四寺はいずれも結構な堂宇を構えておられます。 永元坊は唐津八百屋町に移転して堂宇を構えながらも事情があってほどなく還俗し、了休坊は平野町に伝明寺の号を得て三百年の法灯を有しましたが寺営困難となり明治廿年頃その寺号と権限を長崎県小浜在住の人に移譲し、還俗して伝姓を名のられたそうです。

安楽寺南門と蝦蟇石(画面ほぼ中央)蛇石(左手前)
蝦蟇と蛇はにらみ合っている。

泣き石は蛇石の左上で日陰になっている
 私は上記の六坊のお寺様のうち、正円寺の龍渓前住職さま、本勝寺の藤井住職さま、行因寺の立花住職さまをよく存じあげていますし、安浄寺様にもご縁があったことがありますので、名護屋六坊のことがとても身近に感じられるのです。それぞれ由緒書きなどの文書が伝わっていることを書物で拝見しましたが、私などに読めるものでもございませんので、ここでは触れません。ご興味のあられるかたはどうぞいつか六坊巡りをなさってくださいませ。


 思えば名護屋城に端坊が開かれてから永い時間がたちましたが、お堂の中では阿弥陀様がつい昨日のことのように覚えていらっしゃることでしょう。 慶長の役の折に豊後臼杵の真宗寺院安養寺の僧・慶念が豊後の小大名太田一吉に近侍する医僧として老境の身で従軍して、見聞した戦いの有様と民衆の受難をつぶさに記した『朝鮮日々記』を今回読みましたが、むつかしく、注釈を頼りに読みすすみました。慶長2年6月24日から書き起こして名護屋にいたり端坊に参る予定が船出の時間に間に合わずに断念し渡海、7月11日には釜山で真宗寺院に詣でています。すでにその頃真宗本願寺教団は海外への布教を計画し、「釜山海高徳寺」が釜山には建立されていましたので、おそらくこの高徳寺のことであろうと注釈にあります。この高徳寺も、朝鮮半島から日本軍が撤収するにあたって引き揚げてきて、唐津市中町に現存します。高徳寺のことはいずれまた勉強させていただくこととして、ここで気を引かれることは、慶念はこのお寺に参って、この寺が「端坊様の下」だと書いていることです。この端坊は、注釈によると、本願寺門跡興正寺に属し、その後山口に別院が出来たものです。ここの「端坊明念(みょうねん)」という僧が毛利家と親交があり、また堺の豪商達とつながって布教活動をしていたそうで、「安楽寺縁起」に出てくる「端坊明然」師と同一人物ではないかと、草野顕之大谷大学教授が推理しておられます。だとすると、名護屋城にあった端坊と釜山の高徳寺には深い関係があり、また安楽寺二世が毛利家の血筋であり、唐津に移る時に堺商人が町割りをする際に最優遇されたのも当然のことに思えます。

『朝鮮日々記を読む
 このたび、安楽寺のあたらしいお庭の太閤ゆかりの石たちを紹介しようと資料を読みにかかった私は、ご縁に導かれて慶念和尚の『朝鮮日々記』に突き当たってしまいました。軽い気持ちでなどとても読めないこの従軍日記は、あらためて名護屋城の意味を私に考えさせます。秀吉の狂気はなんだったのでしょうか。辞世の句に「夢のまた夢」と詠んだ太閤は往生の間際には自分の非をさとったのでしょうか。そして二十世紀の秀吉たちは何をしたのでしょうか。またこれからも現れるかもしれない世界の秀吉たちをどうすればいいのでしょうか・・・。
重い、供養月となりました。

 安楽寺庭園にこのたび再び配置された太閤の泣き石は、その昔名護屋城にあって、風向きによって「啾啾(しゅうしゅう)」と声を発し、その時は太閤は渡海を差し止めたそうです。
泣き石
 石はなぜ啾啾と泣いたのでしょう。「今日は海が荒れるから、船出するな」と報せたのですか?それとも、「非道な唐入りを止めよ」と哭いたのでしょうか?

 最後に慶念の『朝鮮日々記』から何首かの歌をお読みください。
 読みにくい部分を私が勝手に漢字になおし、かなづかいを変えました。お許しください。

    とがもなき人の財宝取らんとて雲霞のごとく立さわぐ躰
    野も山も焼きたてに呼ぶ武者の声さながら修羅のちまたなりけり
    あさましや五穀のたぐい焼すつる煙のあとに一夜ふしけり
    おそろしや死出の山ともいいつべし雲にそびゆる峰をこそゆけ
    無残やな知らぬうき世のならいとて男女老少死してうせける
    この城の難儀は三にきわまれり寒さ*ひだるさ水の飲みたさ (*ひだるさ=ひもじさ)

               
    参考文献 『安楽寺四百年のはるかな日々』 平成2年10月13日  護念山安楽寺発行
           『唐津古寺遍歴』 松代松太郎著 昭和29年12月20日 久敬社唐津本部発行
           『朝鮮日々記を読む』  2000年9月5日 朝鮮日々記研究会編 法蔵館発行
           『古寺発掘』 中村真一郎著 昭和55年4月10日 中央公論社発行
           『鎮西町史』 笹本寅・田原治男著 昭和37年4月20日 鎮西町発行

        ご教示いただきました安楽寺住職さまに厚く御礼申し上げます。

              

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ありがとうございました。
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洋々閣 女将
   大河内はるみ


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