この一文は
『新郷土』 昭和39年8、9月号に掲載の特別寄稿より
転載させていただきました。
表記はできるだけ『新郷土』に従いましたが、
明かに誤植だと思われるものは改めました。

資料を提供してくださいました
(財)河村美術館のご協力に感謝いたします。
                      
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updated: October 1, 2000
青木繁と佐賀



                 河村龍夫






*印は洋々閣女将による、現在の状況の補足です。学術的な註ではありません。
 尚、文中にいくつかの旅館名が出ます。文章の性質上、そのまま出させていただき、便宜のために電話番号を載せさせていただきました。        

 青木繁と佐賀との関係と言ふか因縁と言ふか、そうした行き掛りは洋画壇一代の鬼才であり乍ら無名の画家として不遇なしかも短い生涯の晩年を県下で過ごしていると言ふことである。地理的に指摘すると最初は佐賀に来て窮迫の中に一年足らずを過し、其後小城に移り更に唐津、古湯を経巡っているが其期間は極めて短時日である。正確に言ふと明治四十二年(1909年)七月から四十三年十月末迄の一年ニカ月に過ぎないからそう長いことではない。
 青木繁の伝記として纏まった唯一の書である河北倫明の「青木繁、その生涯と芸術」に其生立ちは詳細に記述されているが、佐賀から福岡で死の床に就く迄の間の動静については余りにも漠としていて殆ど空白にも等しい。天才画家の晩年を飾るべき此期の生活が氏の友人から遊離し、消息を絶って過しているために、何等伝承すべきものもなく空漠としているのは、如何にも惜しいものである。唯僅に其時々に接触した人々の其場々々の口伝は朧げながら残っているにしても、それを繋ぎ合わせて全きものにするのは覚束ない。のみならず時日の経過は人々を死の彼岸に、事実を忘却の彼方へ押しやってしまっている。よし綴り合わせるにしても脈絡のない口伝の一つ一つは余りにも切れ切れであり過ぎる。
 そこで私は錯誤と粉飾と誇張を警戒しつつ忠実に尋ねて求め得た事実をたよりに、青木の足跡を追ふて、佐賀と青木の因縁にいささかでも形を整へ、現存の伝記の最後の空白を埋める追補を作るために、此一篇を執筆する。意図するところを諒解されたい。

 そうであるから僅かなきっかけを辿って事細かに順序良く筋道を立てることに留意はしたが、事実の過誤もあろうし脱落もあるにきまっているから、勿論完璧とは言へない。殊に想像と思惟が執筆の根底をなしているから尚更のことである。
 佐賀での青木の生活は、非凡な性格の故に物質的にいささかの余裕もなく、総じて陰惨な窮乏の中に終始しているようである。画業には素晴らしいものがあったに相違ないが、惜しむらくは其作品の多くは散逸してしまって現在残存するものは極めて少ない。
 青木は四十二年七月から佐賀に来てゐるがどうして佐賀に来るようになったか、其日迄の彼の生活を先づ最初に追跡することにする。

 彼は年末から流浪の旅に出て四十二年の元日を三角の酒楼で迎へ、それから天草に渡っている。天草にどれ程いたか、どこをどう放浪したか、全く知られていないが、画作しつつの旅で、天草から熊本に出て、久留米には四月に帰ってきたもののようである。一説には五月迄熊本を流浪したとも言はれている。しかしながら、旅については巡遊の経路も行動も全く詳かでなく、何一つとして信ずるに足る記録が無いから、伝えられる儘を信ずるより外詮ない訳である。
 久留米に帰って、せっぱ詰まった彼は近々上京するからそれまでと言ふ口実で、六月七日を料亭花屋に潜り込み、ここに居を定めたのだったが、其後女将の好意に縋ってずっとここに居据ってしまった。料亭と言ふ場所柄だけに、夜毎の宴会の華やかな雰囲気に引きづられて、彼もまた陶酔を求めて酒を飲みつづけたようにも伝えられている。その内女将の妹との間に恋愛関係を生じ、それからは画作も怠り勝ちで、相当図々しく自堕落な生活を続けたようだ。
 女将の話では七月迄度々佐賀を訪れているが、それは佐賀で画会をすると言ふ事が目的であったらしい。併しその画会は実現した様子は無かった。誰を訪ねて佐賀に行ったかは明かでないが、察するに妙安寺小路に住む三根貞一ではなかったかと思われる。 三根は長崎県生まれであって、青木より一年遅れて上京し、小山正太郎の画塾不同舎で一緒に画業を修めた友人であるから、青木が金策のために企てた画会の計画を三根にもち込んで、斡旋と助力を乞ふたと推定しても無理ではない。其頃の青木は、依然として全く無一文の素寒貧で、小遣に窮しては花屋の女共にせびったりしていたからである。 七月の十三日に、お盆の墓参りに行くと言って、無造作にぷいと花屋の派手な楼模様の浴衣を着た儘出掛けている。一説には上京するからと言って花屋を出たと言はれている。何れにしろ其儘飄然と佐賀に行って再び久留米には帰っていない。

 佐賀に来た彼は異様な風体をしているが、お訪ねしてよいかと書面で先触れして小学校時代の恩師森三美を訪ねている。どこで求めたのか釣をして来たと言って一尾の魚を提げて訪れたのであるが、それから暫時森宅に滞在した事になっている。何日間居たのか或いは何カ月間森の居候をしたのかは詳かでない。
 森宅を出てからずっと佐賀に居たのは確かであるが、どこに居たのか下宿もはっきりせず居所は全く不明である。或いはこの時から妙安寺の一室を借りたのではないかと思われる。
 森宅滞在中に画いた作品「二人の少女」は森の令嬢をモデルにして制作したものであり、S. AOKI 1909とサインが書き込まれている。誠に華麗な均斉のとれた画である。いい作品であるが、保存が悪くて明るい色調にややくすみが出ていると伝へられているが、私は現物を見ていないから何とも言へない。日傘をバックにした、無邪気な少女の構図はいかにも可憐で写実の魅力が全画面に横溢しているのを感じる。

 先年森永庫太氏が、骨董屋で掘り出したスケッチ板の油絵も、此時期の作品でないかと思はれる。構図の配置と色彩に類似が見出されるからである。サインは無くとも、妙安寺から出たものであるから、青木の作品には間違いない。青木を親切に世話したと言はれている妙安寺現住職の母堂に残したものであろう。母堂は先般八十才の高齢で他界されているが、鮮明で原色を使ったランプと女の顔を画いた此画には思出の数々が秘められているような気がする。実に明るい色調で派手で華々しくさへある。色の明るさからルブランかニウトンを使ったものと思はれるが、ポッピーオイルもテレビン油もなく卵か何かで溶いたに違いない。画面に毛筋程のひび破れが来ているのはいかにも惜しい。とは言っても全体的に観て別に非難すべき点はなく、青木には珍しく絢爛たる色彩の作品である。
 天平婦人乱舞図が矢張ここから出て掘り出されているが矢張り青木のものに違いない。勿論サインは無いから空想に任せての画作であろう。
 佐賀では、三根貞一と森三美が唯一の頼りとする知合であるから、此二人には随分世話にもなったろうし迷惑も掛けたであろう。それから誰からか西肥日報*の主筆西峯火を紹介され氏にもその知遇を得ている。

















*西肥日報はもうありません。
 
 西峯火は多久の出身で、新聞人と言ふよりもむしろ民政党の代議士西英太郎の名において地方政界の大立物で、勢力もあり県望と信頼を荷っていた人である。西はこの不遇な画家の才能を惜しみ、再び中央画壇に出して活躍させたい熱意に燃えて、彼をすくなからず後援し、惜しみなき庇護を与へたようである。
 此年の秋から翌年の四月迄半カ年の間彼は旺盛な制作慾に駆り立てられて遮二無二画会のための作品制作に没頭した。西の激励に従った精進である。一方生活の資を得るために肖像画の依頼を受けて盛んに描いたようである。現存する西英太郎の肖像画を見たが、色調はグレイの勝った仕上で、現実味豊かな実に落着いた上乗の作である。 此時から青木は画作のかたわら、文筆の生活に這入っているが、この間随想断片をものしては西肥日報に掲載し、或は自作の和歌を整理し、自伝をも執筆している。
 歌集はうたかた集、村雨集の二巻である。
 自伝断片等の遺稿は現存し、子息福田蘭童が所有していると言ふことである。
 その頃書いた美術論「芸術成立と裸体制作」の発表は、西峯火の好意により西肥日報に掲載されたが、その論旨は美術愛好家を刺激し、論評の的となったと言はれている。

 佐賀平野の粛条たる秋の訪れは寂として荒涼の感を深からしめ、環境の落実たる視野は彼の胸中に一抹の郷愁を醸したもののようである。青木は今更の如く過去を顧みて、愛人福田を懐かしみ愛児蘭童への思慕を募らせたに違いない。
 父となり三とせわれからさすらひぬ 家まだなさぬ秋二十八
 これは西肥にのせたものであるが、この可憐な感傷の一首は、遣瀬無い心情を示す真実な抒情の歌と言へる。
 彼はまた遥かに上野の森を思ふたであろう。彼はこの年しばしば上京を夢想し、且つ企画しているが、その上京の焦慮は全く文展への執心である。それは画家としての社会的名声獲得の未練からである事は言ふ迄もない。彼の画才と芸術的情熱と矜持から言って、画壇に対する自負は相当強いものがあった。それだけに画壇復帰の野望は、澎湃として彼の胸に奔騰したのは当然である。上京、制作、画会、名声、この一環の連繋は絶ち切り難い思念となって、執拗に彼の胸を駆け巡り、悲惨な現実生活の中に、底知れぬ悩みとなって沈澱したであろう。それを思ふと、上京の野心に叛く青木の佐賀での生活は、名実ともに哀れであったと言へる。

 此間青木はしばしば西肥日報社に西峯火を訪ね、何かと指導を受けたであろう。西肥日報社は松原町県庁通りの角で今の勧銀の前である。現在自転車屋になっている家屋で大きい看板の後に古風でエキゾゥチックな洋館が覗いているのが見られる。ペイントは剥落して薄汚い面影を残しているが、当時は眼をみはらせるに充分値するハイカラな建築であったろう。
 かくて四十二年の大晦日が来たが、彼の貧窮は言語に絶し、どうにも動きのとれぬどん底生活に陥っていたようである。正月を三根貞一宅で迎へると日記には記されているが莫逆の友梅野満雄の説に従へば当時妙安寺に部屋借りしていた彼は、大晦日に三根から恵まれた目刺鰯と金五十銭で、注連縄など正月用品を買ひ求め、弧影悄然として元日を迎へている。寒さは寒し雑煮の餅もさぞ咽喉につかへたであろう。
 かかる窮乏と貧困の悲惨な耐乏生活の中で渾身の精力を傾倒して作品の制作を続けた甲斐あって、漸く四月になって西の斡旋と尽力のお蔭で画会が開かれている。作品を陳列したのは何処であるか、記録が無いので全く解らないが、推測されるのは白山町の曙旅館*である。其頃書画骨董の売立競売は旅館で催されるのが慣習であったから、同じ性質の画会も旅館であったと言ふのが正しい。当時の曙旅館は大正八年に壊されて他に移転しているが、現在杵島炭礦本社*のある場所がそうである。今も社屋の裏に小さい茶室風の陋屋が残っているが、それは曙旅館時代の建物である。
















*曙旅館は佐賀市中の小路に旅館あけぼのとして、栄えています。TEL0952-24-8181

*その後こちらはダイエーになり、それも撤退して、ファッションビルになっています。
 
 此画会には相当数の作品が陳列されたと思はれるが、出品数も画題も不明である。青木が四十二年に掛けて佐賀で描いた作品で題名の明かに残っているものは次の通りであるから、此を見れば大体の出品作が推察される。
  明治四十二年(1909年)作
    天草風景
    天平婦人乱舞図
    筑肥風景
    小城の町
    二人の少女
    雪の庭(十年とあるも九年の作品)
    水郷
    白壁の家
    神野公園
    白山町の夕月
    佐賀城の蓮
    小城の山奥
    其他鉛筆淡彩
  明治四十三年(1910年)作
    温泉
    浴女
    春郊
    筑肥風景
    虹の松原
    無題
    無題 風景
    犬
    夕焼けの海
    朝日
    湯呑
    山村風景
    橋のある風景
    山合の風景
    水車小屋
    明治の女
 こう並べて見ると四十二年では天草風景、天平婦人乱舞図、筑肥風景、四十三年では朝日、夕焼けの海、虹の松原を除く他の作品は全部此画会へ展覧されたものと見るべきであろう。
 此中で異色の作は「犬」であるが、実に技巧が過ぎて平淡にに堕している。ポインタ種の猟犬の姿態を写したものであるが、絵具を滑かに塗り潰して奇麗ではあるが青木の個性は何処にも出ていない。これは小城の作で、画会には出なかったかとも思われる。
 西肥日報の宣伝がよく行届いていたせいか画会の成績は頗る好調で、作品はよく売れ青木の懐にはにわかに纏った金が這入ったようである。それを機会に居を妙安寺から曙旅館に移している。 
 
 しかしながら其等の多くの作品の行方は全く解らずあるべき筈の佐賀に何一つとして残っていないのは不思議である。その内の逸品は何と言っても「温泉」でT.B.S.AOKI 1910 のサインがあり技巧の勝った仲々の名作である。ずっと曙旅館に掛けてあったが何時とはなしに姿を消してしまったと聞いているが、何処かに秘蔵されているのではないだろうか。此作品は素々曙旅館の懇望で作画したものだと言ふ話もあったが私は此画会の出品作のように思ふ。構図はローマンテックな空想によって組立てられたもので、モデルを使った写実ではない。かねて髪を梳る女の姿態に蠱惑的な興味と魅力を感じていた青木のほしいまゝな幻想を示現したものに過ぎない。従って背景は梳る裸婦を中心に思い切って技巧を凝らした欧風の品々を配し、美しい空想に調和を求めている。
 田中丸氏の所有する色鉛筆風景も、中野良活氏宅にある水彩風景も此画会に出たもので鉛筆淡彩の湯呑、山村風景、橋のある風景等も同様此画会の出陳作であるように思われる。

 もともと異常性格の持主である青木は、金がはいると奢侈好みの性格からじっとしておれなかった。持ち前の乱費癖が擡頭して、贅沢な洋服その他身の廻りの品々を整え、法外に無軌道な生活を始めたといわれている。毎日そこらあたりの料亭や酒場を飲み歩いてウイスキーを呷っては乱酔し不摂生の限りを尽したようだ。其揚句健康を損じてノイローゼ気味になった。まさしく神経衰弱に罹ってしまったのである。若くて生涯を閉じた致命的な肺患は此時の放埓な生活の中にきざしたものゝようである。
 七月になると無計画と放縦な生活の破綻が来た。懐も貧しくなってきたのか、こうした不安定な日常の焦燥から遁れようとして静謐と悠閑を求めて小城に移っている。
 小城では先ず本町の麹屋旅館に落着いたのであるが、主人の江里口悟の理解ある待遇によって居心地のよい日々を心楽しく過ごしたようである。当時の麹屋は小城の中心の十字路の角から二軒目であるが、今は全く改築されて洋物店になり昔の面影はない。江里口は美術愛好家であったので、共に芸術を語り、此の貧しい画家を遇するにいささかの軽視も見せず、快く親切に行き届いた世話をしたと言われている。
 やがて麹屋から親戚のみどり屋に居を変えている。ここは今昭和バスの待合所になっている三階建の家で、荒廃はしているが昔の儘の姿が、残存している。
 青木は時に郊外を逍遥してはスケッチを取り、或いは祇園川の流れに綸を垂れてハヤ釣に興じたりしている。祇園川も今と違って葭の乱生もなく広く且清い淙々たる水流であったに違いない。
   小流に鉤を流して手を束ね
   肥前の国は小城に釣する
 小城では美術学校を通じ不同舎時代の友人である中学の画の教師をしていた平島真を訪ねている。その交際が流浪の旅にある孤独の青木にはどんなに慰安であったかは想像に余りある。小城に移ったのも、或いは平島がいたためのようにも思われる。度々平島を訪ねては家族並の応対で遠慮の無い心易い饗応を受けているが、その訪れは細面で眼のぱっちりした平島の妹つぎに魅惑されたためでもあるようだ。竹久夢二型の女性と言い残されているからチャーミングな眸の美しい娘であったらしい。やがて青木は彼女との熱烈な恋に陥っている。平島の家があった北小路から公園への二人のそぞろ歩きは眼立って狭い町の口さがない噂に上るようになった。

写真 佐賀新聞より


 八月になると青木の健康は面白くなく肉体的に肺患の兆候が現れ始めた。二人の恋は白熱して結婚話まで持ち上がるほどになったが、近親の寄合で病患と気遣って結婚は取止めるようになったと言われている。いやが上にも燃えさかったこのロマンチックな恋愛にも遂に終止符を打たねばならぬ時が来たのである。
 青木は此間画業を怠っていた訳ではない。平島の娘の寝顔を描いた油絵があって平島はそれを大切に保存していたが、終戦時二十二年に大連を引揚げる時彼地に残して来ている。
 尚小城郊外岩蔵に出掛け、水車屋深町弥一宅に泊り込んで新緑の山の画を描いている。途中発熱で寝込んでしまい、キャンバスの上半分が未完成の儘で残されている。無名画家の未完成作品なので粗末に扱われ物置に放置された儘だったので雨漏れの滴が画面を著しく汚損してはいるが筆触から見て青木の作品に間違いない。
 其他小城で描いた作品が多少麹屋とみどり屋にあった模様だが、両家とも今は離散して行方を尋ねる術もない。
 病状の悪化と巷間の噂から遁れさせるために療養の目的で唐津へ海水浴にへ行くことになった。この転地は誰の発案かさだかに知る由も無いが、おそらくは平島と江里口の相談の上の勧告であろう。江里口の細君は唐津から縁付いた人であるから其の間いさゝかの好意ある発言があったとは想像される。
 ここに一言附け加えて置きたいことは、青木の死後平島の妹は小城出身の弁護士松枝繁雄と結婚し幸福な生涯を終えている。尚平島は其後満鉄経営の南満工業専門学校の画教師として招聘され小城から大連へ転出」していることである。引揚後福岡で逝去している。







青木繁 最後の“ロマンス” 恋人の肖像画を確認

佐賀新聞 掲載日 2011年08月13日
 「海の幸」などで知られる明治を代表する洋画家、青木繁(1882~1911年)が28歳で亡くなる前年、小城市に滞在した際に描いたとみられる女性の肖像画が西松浦郡有田町で確認された。モデルは、青木が身を寄せた支援者の親族で、青木と恋仲だった女性とみられる。今年は青木の没後100年。画壇に彗星(すいせい)のように登場しながら、家が没落し、恋人や子どもとも離別、失意のうちに早世した天才画家に“最後のロマンス”があったことを伝える貴重な作品で、注目を集めそうだ。

 絵は明るい色調の油彩で、柔らかな表情を見せる女性の顔が軽やかな筆致で描かれている。大きさは縦16センチ、横11センチの楕円(だえん)形。素材は薄い杉板で、弁当箱のふたに描いたとみられる。これまで一部の研究家が青木の隠れた作品として論文で紹介しているが、絵の所在は明らかになっていなかった。
 絵を所有しているのは有田町の会社経営、秋山正樹さん(66)。言い伝えや残された資料などよると、小城市三日月町で開業医をしていた秋山さんの祖父が1910(明治43)年ごろ譲り受けたという。詳細な経緯は不明だが、「偉い人が描いた絵」とされ、秋山さんは「大事な絵だから粗末にしてはいけない」と書斎に飾っていたという。

 青木は父親の危篤で、一緒に暮らしていた恋人と子どもと別れ、久留米市の実家に戻ったが、母親と衝突して九州を放浪。1910年には、東京の画塾で一緒に学んだ小城中学校の図画教員・平島信の家に滞在している。
 当時、油絵を描く人は限られ、平島家の近くに下宿していた人が絵のモデルについて「平島家にいたツギさんに間違いない」と証言した記録が残っている。ツギは平島のめいで、地元では青木と交際していることが知られていた。
 所有者の秋山さんの妻静見さん(61)は「死の直前、青木にも心やすらぐ時があったことを伝える肖像画で、青木の最後のイメージを大きく変える。機会があれば、ぜひ多くの方に見てほしい」と話している。(宮里光)


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〈本人の画法そのもの〉

 ▽青木繁の研究家で、洋画家の金子剛氏(佐賀市、東光会常任審査員) この時代、これほど明るい色彩の絵を描く人間は佐賀にはいない。絵は、青木の画法そのものだ。ふくよかな顔は「天平時代」など青木の女性像と共通するし、肖像画を丸く描き、一部を塗り残した点も青木の特徴と合致。青木の作品と考えて間違いない。晩年、青木が滞在した佐賀には、絶筆の「朝日」(小城高校同窓会蔵)が残されているが、今まで知られていない青木の人物像を伝えるこの絵は、佐賀の貴重な財産といえる。


 唐津へ転地した青木は先ず西海新聞の無名の青年記者堀浩一郎を訪ねている。恐らくは江里口の紹介であったのだろう。
 西海新聞*と言うのは、在来の唐津新聞*に対抗して設置された許りの新進の新聞社で、社屋は現在の昭和バスの発着所の北側に新築されていた。そこはお城の内濠に臨む石垣の上で蓮が一面に密生しているのを俯瞰出来た。
 唐津に来た青木は此社屋で旅装をとき二階の編輯室で起居しはじめている。痩身で品のいゝ風貌の新鋭記者堀もこゝに寝泊りしていたので一緒に暮らすことになったのかも知れない。
 森永庫太氏の書いたものによると、平島に頼んで「朝日」の揮毫代として調達融通して貰った金壱千円を懐にして、唐津の海水浴へ転地したように伝えられているが、それは何かの間違いであろう。青木の財布は僅かの小遣しかはいっていない貧寒なものであった。その証拠に持っていれば金使いの荒い彼が、最初の夜から新聞社の二階に寝泊していることは、此の間の消息を明に語るものゝように思えるからである。
 誰が何と言おうと当時の物価からすれば金壱千円也はたいした金額で、無名画家の作品にこれ丈の大金が投げ出されたとはどうしても考えられない。
 青木は四十一年に仏蘭西留学を熱望し、夢想として色々計画を立てゝいるが、親友梅野満雄宛の書簡翰に書かれた文中に、日常生活に煩わされることなく、一途に作画修行に精進するためには、仏蘭西滞在の費用は年間壱千円を要すると縷々述べている。少くも三年間逗留したい希望をもち、その資金獲得の金策に相当頭を悩まし、画料千円也と言い或いは三千円也と口癖の千円が「朝日」の代金に混同されて伝えられているのでないだろうか。
 小城中学の備品台帳に四十二年十二月二十七日付けで「朝日」の購入費金五十六円三十五銭と記載されているのは額縁代でなく「朝日」そのものゝ代金であると私は信ずる。十二月と言う日付は、彼が小城を去って福岡で死の床に就ている時期であるから、寧ろこの代金は小城滞在中の未払いになっている不始末と不義理を清算するには必要だった整理資金の総計であって、そのために小城中学が「朝日」の代償として支払った金額であると推断するのが至当である。
*西海新聞はもうありません。
*現在の唐津新聞ではなく、唐津日々新聞のことかと思われます。




























 やがて青木は西の浜の旅館金波楼に移ってこゝで静養しつゝ思い出したように心ゆくまでの画作を続けたようである。
 今から五十年前の西の浜はぐっと砂が豊富に盛り上っていて現在茶店のある位置から波打際迄は百余米あったろう。背後の五間馬場の苔むす石垣には巨幹の老松が林立していて颯爽たる松籟を響かせていた。宵待草と浜豌豆が一面に生い茂ったこの砂の丘陵に砂防の土提が築かれ、その内側に二軒の広大な家が新築された。とっつきが金波楼で奥の西側の家は山村邸であった。道をはさんで東側は東の潮湯である。*
 この金波楼滞在中に宿賃の代りに置いた作品がニ三点あったように聞いているが今どうなったか解らない。それを見た古老の話では何れも海浜風景であったと言うことであった。青木が唐津で描いた作品で明に現存しているものは朝日と夕焼の海と虹の松原の三点に過ぎない。
 金波楼にどれ程いたか知られていない。追い出されたのか、自ら倦きて出たのか、何れにしろ金波楼を出てから東の潮湯と言われている木村旅館*に宿っている。ここも新築した許りの二階建で海を眼下に視渡す部屋の居心地は良かったろうと思う。こゝでも確かに油絵を一点残していたが親戚の者が東京へ持って行ったが、さあ今どうなったかと言うだけでその在否の程も明らかでない。
其頃先手間に潮湯の番台によく座っていた娘さんは、確かお八重さんと言ったように覚えているが、旅館の仕事を切り廻していたので、其方に当時の記憶を呼び醒まして貰った。そんな方が滞在して居られたように、うっすら覚えはあるが、特にどうこう言うきわだった印象は何も残っていないと言う。宿料の代りに置いていった洋画はあったが、風景だったと言うだけで構図がどんなものであったかはっきりしない。
*このあたりの地形は現在では南側に道路が拡幅されているために感じがかなり変わっています。なお、金波楼はもうありません。






*木村旅館は渚館きむらとして今も百年の暖簾を守って栄えています。TEL0955-72-4617


 八月の唐津の海の展望は素晴らしい。広大無辺の大空が一面に清淡な橙黄に染まり、其上を朱紅を映えた層雲がたなびいて点綴する。それが静穏な海面に反映し、その景観は寔に平和で壮麗である。
 「夕焼の海」はそうした空をバックに模糊たる淡黄の海に仮泊する帆を張ったスクーナー型の船を描いた格調の高い作品である。おそらく金波楼に居た時その庭から描いた眺望であろう。松浦河口にある姉子の瀬の沖合の海の風景であると思われる。明るく輝く夕焼を反映した海には平和な永遠の幽寂が漂い流れている。色調と言い構図と言い実に落着いた作品でTBSAwokiと言うサインがある。TBとは吐山庵木舟と言う彼の雅号のイニシャルを取ったものである。
 青木の最後の作品と言われている「朝日」は波濤の紆る動向から見て西の浜から鹿家の岬に向って写生したものであると思われる。私は八九月の唐津の浜に立って、朝日の出る位置と波濤の関係をよく調べてみたがそうとしか思えない。バックの山々は抹消したもので波濤の動きから見ると、八月末か九月の始めに描かれたものと推定する。穏やかでしかも雄大なうねりの形状の把握も適確だし、朝日の光芒も強烈ではなく軟らかで、空と海の陽光の反映が波頭の一つ一つの動きに丹念に描かれ、全体として明るくはあるがしっとりと落着いた色調である。空と海、ただそれだけの海景だが自然の海の荒々しさはなく全面いかにも駘蕩として厳粛な悠遠の気が漲っている。青木にいくつもの海景の作品があるが何れも房州妻良でのものか、その幻想作で紺碧の海と岩礁と波濤の飛沫を描いている。この「朝日」は全く異色で平和な朝明けの空と海を巧妙に囚えた寔に傑出した風格の海景である。
 
 九月の半過ぎから青木は感冒に罹りひっきりなしに出る咳に苦しんだ。微弱ではあっても発熱はするし病状は決定的に悪くなって行った。今となっては明らかに結核の症状を呈したのである。漸く感冒も癒って少し気分が爽やかになったので、十月の始めに慌しく唐津を引き揚げている。恐らく十月三四日頃であろうが宿賃の代りに油絵を置いて出ている処から見ると金は全く使い尽していたに違いない。汽車にも乗らず病後の憔悴もあったろうに、唐津に来た時其儘の夏服を着込んで夜半とぼとぼと十里近い道を歩いて小城に帰ったと伝えられている。
 小城ではどこに辿り着いたかは明らかでないが御馴染の麹屋でなかったろうか。こゝで病後の静養の幾日かを過ごしたであろう。
 多々羅義雄氏の書いたものによると、或日一緒にスケッチに出たが興趣の動く儘に任かせて渓谷の秋色を賞でつゝ古湯に行っている。それは単なる写生行の延長であろうか。青木の意図したものは静養であって心の底に潜在していたその願が僻陬の侘しい温泉に彼を誘うともなく導いたもののように思える。山奥の鄙びた古湯の宿は扇屋*であるが、そこでの起居は退屈であったろう。時に縁に出て目の前の淙々たる渓流の画作に耽りもしたろうし、時には紆曲する渓流に沿うて倡佯しスケッチしたであろう。
 宿の主人江頭氏の話によると事実沢山のスケッチがあったようだが心なき女中が紙屑として焼き棄ててしまったようである。幾日かの後青木は宿泊代を払わずスケッチ板三枚の油絵を残して無断で宿を去っている。
 宿賃も払わぬような無名の貧乏画家の絵が何になると女中は鬱憤と反感から三枚の絵を悉く割って裏の渓流に投げ棄ててしまったと言われているが誠に惜しいことをしたものである。
 扇屋の話によると十日余り古湯に滞在したと言うことであるが、ぷいと宿を出た青木は秋色豊な山々の紅葉に心惹かれて往路とは違う険岨な白坂越えの山道を只独り歩いて清水に出て小城に帰っている。その無理が祟ったのではないだろうか、小城に帰って幾日か経った十月二十日に喀血している。その喀血を見た彼は愈々病状の悪化を痛切に自覚し、旅で病む苦悩に耐えず急遽弧影悄然として久留米に帰っている。
 久留米では旧居に入ったが誰とて世話する者もなく只独り淋しく病床に呻吟したと言うことである。
 十月末になって愈々病状は悪化の傾向著しく遂に十一月三日大喀血をした。二十一日に福岡の松浦病院に入院したが経過は一進一退で遂に再起不能となり、その冷たい病床で翌年三月二十五日永遠の眠りに就き短い生涯を終えている。これが天才画家青木繁の儚い終焉である。
*扇屋は新しくなって健在です
TEL0952-58-2121
 
 付記*
 青木繁に関する文献は極めて少なく、冊子にまとめられているものは、わずかに次の五冊である。
  河北倫明著「青木繁その生涯と芸術」
  石橋美術館編著「青木繁」
  青樹社編著「青木繁遺作展覧会図録」
  正宗得三郎、坂本繁二郎、梅野満雄編「青木繁画集」
  河北倫明著「日本近代絵画全集第四巻」(講談社)
 その他美術新論等雑誌に掲載されたもの及び、新聞記事などの断片がある。そのいずれも青木繁を知る上に多少参考にはなっても、資料としての価値には乏しいものばかりである。美術新論は廃刊までの全冊を見たが、二三の短い追憶記事にすぎず、二巻七号の和田英作のもののみは読みごたえがあった。 
*左の付記について
現時点では、かなりの青木繁研究書が出ております。河北倫明はその後何冊も青木繁を書きますし、松本清張、松永伍一、渡邊洋、竹藤寛、谷口治達ほか多数あります。また、坂本繁二郎や熊谷守一などの画家たちも、後年青木繁を語っていますし、青木繁の書簡などにも発見があります。